第15話 死者への証明
事件から15日後。
朝の街には、薄い霧がかかっていた。
午前7時18分。
冬に近づく秋の朝は、まだ夜の名残を残している。ビルの谷間に差し込む光は弱く、歩道のタイルは夜露でわずかに濡れていた。通勤の人々が駅へ向かって歩いていく。誰もがスマートフォンを見ながら、いつもの朝をこなしている。
だが、相良律にとって、その朝はいつもの朝ではなかった。
国立先端認知科学研究センターの前には、まだ数人の記者が残っていた。事件直後のような騒ぎはない。テレビ局の大型車両も減り、マイクを持った記者たちの表情にも疲れが滲んでいる。
それでも、事件は終わっていなかった。
白幡玲司は逮捕された。
白幡医療財団には強制捜査が入り、地下施設の記録、被験者リスト、資金の流れが次々と明るみに出た。報道は連日続き、世間は怒り、驚き、そして少しずつ別の話題へ移り始めている。
そういうものだ。
どれほど大きな事件でも、世界は止まらない。
誰かが壊れても、電車は動く。
誰かが泣いても、天気予報は流れる。
誰かの人生が奪われても、人々は昼食の店を探す。
相良は、それを冷たいとは思わなかった。
世界が止まらないからこそ、生きている人間はその中で息をするしかないのだ。
第7実験室は封鎖されたままだった。
久瀬誠一の遺体が見つかった場所。
《オルフェ》が死者の証明を始めた場所。
嘘を暴き、記憶を開き、傷をもう一度血のにじむ場所へ戻した場所。
相良は規制線の前に立ち、しばらく扉を見つめた。
ここに来るのは、今日で最後になるかもしれない。
「相良さん」
背後から声がした。
振り返ると、宮代啓介が立っていた。
黒いスーツ。整えられた髪。頬の傷はもう薄くなっている。だが、目の奥の疲れは消えていなかった。
「早いですね」
相良が言うと、宮代は小さく肩をすくめた。
「年を取ると、朝に強くなります」
「嘘ですね」
「ええ。眠れなかっただけです」
2人は少しだけ笑った。
事件の前なら、こんな冗談を言う余裕はなかった。いや、冗談というより、互いの疲れを確認するための儀式のようなものだった。
「沙季さんは?」
相良が聞くと、宮代の表情が少しだけ柔らかくなった。
「まだ不安定です。でも、少しずつ話しています」
「事件のことを?」
「はい」
「つらいですね」
「ええ」
宮代は扉を見た。
「ですが、今度は私が決めないようにしています。どこまで話すか、何を知るか、本人と相談しながらです」
その言葉に、相良は頷いた。
宮代もまた、久瀬の証明に傷つけられた1人だった。
しかし彼は、傷ついたまま前へ進もうとしている。
「藤崎玲奈さんは?」
「保護施設にいます。医師と弁護士がついています。証言する意志はあるようですが、急がせません」
「よかった」
「相良さんに会いたいと言っていました」
相良は目を伏せた。
「……会う資格がありますかね」
「それは、藤崎さんが決めることです」
宮代は静かに言った。
相良は苦笑した。
「最近、その言葉ばかりですね」
「大事なことなので」
その時、廊下の奥から足音が聞こえた。
久瀬美緒だった。
黒い服ではなく、今日は淡いベージュのコートを着ている。顔色はまだ悪い。けれど、目には以前のような空洞はなかった。
泣き腫らした目。
眠れていない顔。
それでも、自分の足でここへ来た人の顔だった。
「おはようございます」
美緒が言った。
声は少し掠れていた。
相良と宮代が挨拶を返す。
美緒は第7実験室の扉を見た。
「ここで、誠一は死んだんですね」
「はい」
相良が答えた。
「何度聞いても、不思議です」
「何がですか」
「あの人が死んだことより、死んでからの方がずっと饒舌だったことです」
相良は思わず小さく笑った。
「久瀬らしいですね」
「ええ。本当に、嫌になるくらい」
美緒も少しだけ笑った。
だが、その笑いはすぐに消えた。
「ひかりの家から連絡がありました」
相良は息を止めた。
宮代も表情を引き締める。
「子どもは……」
美緒はゆっくり頷いた。
「いました」
その一言が、廊下の白い壁に静かに落ちた。
生きていた。
美緒が7年間、死んだと思っていた子どもは、どこかで生きていた。
相良は、何を言えばいいのか分からなかった。
おめでとう、ではない。
よかった、でも足りない。
美緒の苦しみは、そんな簡単な言葉で包めるものではない。
「女の子でした」
美緒の声が震えた。
「7歳。名前は、別の名前で登録されていました。まだ、直接会ってはいません」
「会うんですか」
美緒は少し黙った。
廊下の天井灯が、彼女の頬の涙の跡を薄く照らしていた。
「分かりません」
正直な答えだった。
「会いたいです。今すぐ抱きしめたい。でも、あの子にとって私は知らない人です。急に母親だと言われても、怖いだけかもしれない」
美緒は胸元を押さえた。
「だから、焦らないことにしました。専門の人と相談して、あの子の気持ちを一番に考えます」
相良は頷いた。
それが正しいかどうかは分からない。
だが少なくとも、美緒は自分で選んでいる。
誰かに記憶を奪われ、人生を編集された人間が、ようやく自分の選択を取り戻そうとしている。
「誠一のことは」
美緒は第7実験室の扉を見つめた。
「まだ許せません」
その声は静かだった。
「私の記憶を奪ったことも、子どものことを隠したことも、最後まで自分の死で全部動かそうとしたことも。最低です。本当に、最低」
目に涙が浮かぶ。
「でも……それでも、あの人が白幡を止めようとしていたことも、私と子どもを探していたことも、嘘じゃなかった」
美緒は唇を噛んだ。
「だから、困っています。憎みたいのに、憎みきれない」
相良は何も言わなかった。
久瀬誠一という男は、最後まで残された人間を困らせる。
悪人として憎ませてくれない。
善人として許させてもくれない。
ただ、傷と証明だけを残して死んだ。
*
3人は、第7実験室へ入った。
宮代が許可を取り、短い時間だけ中に入ることができた。
室内は片づけられていた。
《オルフェ》は停止している。青白い光も、機械音もない。白いポッドは沈黙し、ただの冷たい装置に戻っていた。
久瀬の遺体があった場所には、何もない。
机の上も空だった。
ただ、相良にはまだ見える気がした。
白い紙。
そこに書かれていた一文。
僕を信じるな。
あの言葉は、最後まで正しかった。
久瀬を信じてはいけなかった。
白幡を信じてもいけなかった。
《オルフェ》でさえ、絶対の真実ではなかった。
信じるべきだったのは、証明された結果ではなく、その結果を前にして自分で選ぶことだった。
相良は机の前に立った。
「久瀬」
声に出すつもりはなかった。
けれど、名前が漏れた。
「お前は、本当に最低だったよ」
返事はない。
死者は、もう答えない。
相良は続けた。
「でも、終わらせる。お前の証明を、お前の正しさにはしない。残された人間が、それぞれ自分で選べるようにする」
美緒が隣に立った。
彼女は机にそっと手を置いた。
「誠一」
その声は、小さく震えていた。
「私、あなたを許さない」
白い部屋に、その言葉が落ちる。
「でも、あなたが探していたものは、私が引き継ぎます。あの子に会うかどうかも、どう伝えるかも、私が決めます。あなたじゃない。白幡でもない。私と、あの子で決めます」
美緒は少しだけ目を閉じた。
「だから、もう勝手に証明しないで」
宮代は何も言わなかった。
ただ、軽く頭を下げた。
娘の記憶。
藤崎玲奈の証言。
美緒の失われた子ども。
白幡の罪。
すべてが、久瀬の死によって表に出た。
だが、それは久瀬が正しかったという意味ではない。
相良はようやく、そのことを理解していた。
*
研究センターを出る頃には、霧が少し晴れていた。
午前8時32分。
東の空から薄い光が差し込み、濡れた道路が淡く光っていた。報道陣の数はまだ多いが、相良たちを見る目は昨日までとは違う。
好奇心。
同情。
怒り。
疑念。
そのすべてが混ざった視線だった。
宮代は取材を避けるように警察車両へ向かった。美緒は迎えの車に乗る前に、相良へ振り返った。
「相良さん」
「はい」
「藤崎さんに会うんですよね」
「会うつもりです」
「逃げないでくださいね」
相良は苦笑した。
「痛いところを突きますね」
「私も、これから逃げないようにするので」
美緒は少しだけ笑った。
それは、初めて見せる柔らかい笑顔だった。
悲しみが消えたわけではない。
怒りが消えたわけでもない。
それでも、生きている人間の笑顔だった。
車が走り去る。
相良はしばらくその後ろ姿を見ていた。
ポケットの中でスマートフォンが震えた。
差出人不明。
一瞬、心臓が強く跳ねた。
久瀬からの死後メッセージかと思った。
だが違った。
差出人は、藤崎玲奈。
短い文だった。
相良さん。
まだ怖いです。
でも、今度は私の言葉で話したいです。
その下に、もう一行。
会いに来てください。
相良は画面を見つめた。
朝の光が、スマートフォンの表面に淡く反射している。
相良は深く息を吸った。
返信を打つ。
行きます。
たった3文字。
けれど、3年前の相良には打てなかった言葉だった。
送信ボタンを押す。
その瞬間、研究センターの上にかかっていた雲の切れ間から、光が差した。
眩しいほどではない。
世界を劇的に変えるほどでもない。
ただ、濡れた道路の端を少しだけ明るくする程度の光だった。
それで十分だった。
死者は何も証明できない。
証明するのは、いつも生き残った人間だ。
久瀬誠一が残したものは、正義ではなかった。
許しでもなかった。
ただ、隠されていた嘘に向き合うための扉だった。
その扉を開けるかどうかは、生きている者が決める。
相良律は、駅へ向かって歩き出した。
霧はまだ完全には晴れていない。
けれど、朝は確かに始まっていた。
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