表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
死者への証明  作者: 海老沢大地


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
15/15

第15話 死者への証明


 事件から15日後。


 朝の街には、薄い霧がかかっていた。


 午前7時18分。


 冬に近づく秋の朝は、まだ夜の名残を残している。ビルの谷間に差し込む光は弱く、歩道のタイルは夜露でわずかに濡れていた。通勤の人々が駅へ向かって歩いていく。誰もがスマートフォンを見ながら、いつもの朝をこなしている。


 だが、相良律にとって、その朝はいつもの朝ではなかった。


 国立先端認知科学研究センターの前には、まだ数人の記者が残っていた。事件直後のような騒ぎはない。テレビ局の大型車両も減り、マイクを持った記者たちの表情にも疲れが滲んでいる。


 それでも、事件は終わっていなかった。


 白幡玲司は逮捕された。


 白幡医療財団には強制捜査が入り、地下施設の記録、被験者リスト、資金の流れが次々と明るみに出た。報道は連日続き、世間は怒り、驚き、そして少しずつ別の話題へ移り始めている。


 そういうものだ。


 どれほど大きな事件でも、世界は止まらない。


 誰かが壊れても、電車は動く。

 誰かが泣いても、天気予報は流れる。

 誰かの人生が奪われても、人々は昼食の店を探す。


 相良は、それを冷たいとは思わなかった。


 世界が止まらないからこそ、生きている人間はその中で息をするしかないのだ。


 第7実験室は封鎖されたままだった。


 久瀬誠一の遺体が見つかった場所。

 《オルフェ》が死者の証明を始めた場所。

 嘘を暴き、記憶を開き、傷をもう一度血のにじむ場所へ戻した場所。


 相良は規制線の前に立ち、しばらく扉を見つめた。


 ここに来るのは、今日で最後になるかもしれない。


「相良さん」


 背後から声がした。


 振り返ると、宮代啓介が立っていた。


 黒いスーツ。整えられた髪。頬の傷はもう薄くなっている。だが、目の奥の疲れは消えていなかった。


「早いですね」


 相良が言うと、宮代は小さく肩をすくめた。


「年を取ると、朝に強くなります」


「嘘ですね」


「ええ。眠れなかっただけです」


 2人は少しだけ笑った。


 事件の前なら、こんな冗談を言う余裕はなかった。いや、冗談というより、互いの疲れを確認するための儀式のようなものだった。


「沙季さんは?」


 相良が聞くと、宮代の表情が少しだけ柔らかくなった。


「まだ不安定です。でも、少しずつ話しています」


「事件のことを?」


「はい」


「つらいですね」


「ええ」


 宮代は扉を見た。


「ですが、今度は私が決めないようにしています。どこまで話すか、何を知るか、本人と相談しながらです」


 その言葉に、相良は頷いた。


 宮代もまた、久瀬の証明に傷つけられた1人だった。


 しかし彼は、傷ついたまま前へ進もうとしている。


「藤崎玲奈さんは?」


「保護施設にいます。医師と弁護士がついています。証言する意志はあるようですが、急がせません」


「よかった」


「相良さんに会いたいと言っていました」


 相良は目を伏せた。


「……会う資格がありますかね」


「それは、藤崎さんが決めることです」


 宮代は静かに言った。


 相良は苦笑した。


「最近、その言葉ばかりですね」


「大事なことなので」


 その時、廊下の奥から足音が聞こえた。


 久瀬美緒だった。


 黒い服ではなく、今日は淡いベージュのコートを着ている。顔色はまだ悪い。けれど、目には以前のような空洞はなかった。


 泣き腫らした目。

 眠れていない顔。

 それでも、自分の足でここへ来た人の顔だった。


「おはようございます」


 美緒が言った。


 声は少し掠れていた。


 相良と宮代が挨拶を返す。


 美緒は第7実験室の扉を見た。


「ここで、誠一は死んだんですね」


「はい」


 相良が答えた。


「何度聞いても、不思議です」


「何がですか」


「あの人が死んだことより、死んでからの方がずっと饒舌だったことです」


 相良は思わず小さく笑った。


「久瀬らしいですね」


「ええ。本当に、嫌になるくらい」


 美緒も少しだけ笑った。


 だが、その笑いはすぐに消えた。


「ひかりの家から連絡がありました」


 相良は息を止めた。


 宮代も表情を引き締める。


「子どもは……」


 美緒はゆっくり頷いた。


「いました」


 その一言が、廊下の白い壁に静かに落ちた。


 生きていた。


 美緒が7年間、死んだと思っていた子どもは、どこかで生きていた。


 相良は、何を言えばいいのか分からなかった。


 おめでとう、ではない。

 よかった、でも足りない。


 美緒の苦しみは、そんな簡単な言葉で包めるものではない。


「女の子でした」


 美緒の声が震えた。


「7歳。名前は、別の名前で登録されていました。まだ、直接会ってはいません」


「会うんですか」


 美緒は少し黙った。


 廊下の天井灯が、彼女の頬の涙の跡を薄く照らしていた。


「分かりません」


 正直な答えだった。


「会いたいです。今すぐ抱きしめたい。でも、あの子にとって私は知らない人です。急に母親だと言われても、怖いだけかもしれない」


 美緒は胸元を押さえた。


「だから、焦らないことにしました。専門の人と相談して、あの子の気持ちを一番に考えます」


 相良は頷いた。


 それが正しいかどうかは分からない。


 だが少なくとも、美緒は自分で選んでいる。


 誰かに記憶を奪われ、人生を編集された人間が、ようやく自分の選択を取り戻そうとしている。


「誠一のことは」


 美緒は第7実験室の扉を見つめた。


「まだ許せません」


 その声は静かだった。


「私の記憶を奪ったことも、子どものことを隠したことも、最後まで自分の死で全部動かそうとしたことも。最低です。本当に、最低」


 目に涙が浮かぶ。


「でも……それでも、あの人が白幡を止めようとしていたことも、私と子どもを探していたことも、嘘じゃなかった」


 美緒は唇を噛んだ。


「だから、困っています。憎みたいのに、憎みきれない」


 相良は何も言わなかった。


 久瀬誠一という男は、最後まで残された人間を困らせる。


 悪人として憎ませてくれない。

 善人として許させてもくれない。


 ただ、傷と証明だけを残して死んだ。


     *


 3人は、第7実験室へ入った。


 宮代が許可を取り、短い時間だけ中に入ることができた。


 室内は片づけられていた。


 《オルフェ》は停止している。青白い光も、機械音もない。白いポッドは沈黙し、ただの冷たい装置に戻っていた。


 久瀬の遺体があった場所には、何もない。


 机の上も空だった。


 ただ、相良にはまだ見える気がした。


 白い紙。


 そこに書かれていた一文。


 僕を信じるな。


 あの言葉は、最後まで正しかった。


 久瀬を信じてはいけなかった。

 白幡を信じてもいけなかった。

 《オルフェ》でさえ、絶対の真実ではなかった。


 信じるべきだったのは、証明された結果ではなく、その結果を前にして自分で選ぶことだった。


 相良は机の前に立った。


「久瀬」


 声に出すつもりはなかった。


 けれど、名前が漏れた。


「お前は、本当に最低だったよ」


 返事はない。


 死者は、もう答えない。


 相良は続けた。


「でも、終わらせる。お前の証明を、お前の正しさにはしない。残された人間が、それぞれ自分で選べるようにする」


 美緒が隣に立った。


 彼女は机にそっと手を置いた。


「誠一」


 その声は、小さく震えていた。


「私、あなたを許さない」


 白い部屋に、その言葉が落ちる。


「でも、あなたが探していたものは、私が引き継ぎます。あの子に会うかどうかも、どう伝えるかも、私が決めます。あなたじゃない。白幡でもない。私と、あの子で決めます」


 美緒は少しだけ目を閉じた。


「だから、もう勝手に証明しないで」


 宮代は何も言わなかった。


 ただ、軽く頭を下げた。


 娘の記憶。

 藤崎玲奈の証言。

 美緒の失われた子ども。

 白幡の罪。


 すべてが、久瀬の死によって表に出た。


 だが、それは久瀬が正しかったという意味ではない。


 相良はようやく、そのことを理解していた。


     *


 研究センターを出る頃には、霧が少し晴れていた。


 午前8時32分。


 東の空から薄い光が差し込み、濡れた道路が淡く光っていた。報道陣の数はまだ多いが、相良たちを見る目は昨日までとは違う。


 好奇心。

 同情。

 怒り。

 疑念。


 そのすべてが混ざった視線だった。


 宮代は取材を避けるように警察車両へ向かった。美緒は迎えの車に乗る前に、相良へ振り返った。


「相良さん」


「はい」


「藤崎さんに会うんですよね」


「会うつもりです」


「逃げないでくださいね」


 相良は苦笑した。


「痛いところを突きますね」


「私も、これから逃げないようにするので」


 美緒は少しだけ笑った。


 それは、初めて見せる柔らかい笑顔だった。


 悲しみが消えたわけではない。

 怒りが消えたわけでもない。


 それでも、生きている人間の笑顔だった。


 車が走り去る。


 相良はしばらくその後ろ姿を見ていた。


 ポケットの中でスマートフォンが震えた。


 差出人不明。


 一瞬、心臓が強く跳ねた。


 久瀬からの死後メッセージかと思った。


 だが違った。


 差出人は、藤崎玲奈。


 短い文だった。


 相良さん。

 まだ怖いです。

 でも、今度は私の言葉で話したいです。


 その下に、もう一行。


 会いに来てください。


 相良は画面を見つめた。


 朝の光が、スマートフォンの表面に淡く反射している。


 相良は深く息を吸った。


 返信を打つ。


 行きます。


 たった3文字。


 けれど、3年前の相良には打てなかった言葉だった。


 送信ボタンを押す。


 その瞬間、研究センターの上にかかっていた雲の切れ間から、光が差した。


 眩しいほどではない。


 世界を劇的に変えるほどでもない。


 ただ、濡れた道路の端を少しだけ明るくする程度の光だった。


 それで十分だった。


 死者は何も証明できない。


 証明するのは、いつも生き残った人間だ。


 久瀬誠一が残したものは、正義ではなかった。


 許しでもなかった。


 ただ、隠されていた嘘に向き合うための扉だった。


 その扉を開けるかどうかは、生きている者が決める。


 相良律は、駅へ向かって歩き出した。


 霧はまだ完全には晴れていない。


 けれど、朝は確かに始まっていた。


ここまで読んでくださってありがとうございます。

続きが気になったら、ブックマークや評価で応援していただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ