第三話:最悪の再会
列が解かれたのは、区画移送の終点だった。
タルタロス・ピットには「朝」も「夜」もない。
けれど、囚人たちの身体が勝手に覚えていくリズムがある。
独房に戻される時間。
食事と呼ばれる栄養ペーストが配られる時間。
労働区画へ叩き出される時間。
そして、壊れる時間。
陸はその日の終わりに、薄暗い共同スペースへ放り込まれた。
天井の格子の向こうでドローンが旋回し、赤い単眼がゆっくりと視線を滑らせる。
床は冷えた金属で、靴越しでも震えるほど硬い。
壁際には、くたびれた囚人が寄りかかり、中央では若い連中が小声で笑いながら何かを賭けている。
笑い声が、乾いている。
楽しさの笑いじゃない。
獲物を見つけた時の笑いだ。
陸は腹の痛みをこらえながら、できるだけ目立たない位置へ移動した。
壁際。
角。
背中を預けられる場所。
逃げ道を塞がれない場所。
(リラはどこだ)
頭の中で何度も同じ問いが回る。
問うたところで答えは出ない。
ここでは情報が命だ。
そして情報は、殴って奪うか、金で買うか、血で得る。
陸は歯を食いしばり、首輪に触れそうになる手を止めた。
触れなくてもそこにある感覚が消えない。
皮膚の下に、命令が埋め込まれている。
逆らうな。
動くな。
考えるな。
(ふざけるな)
怒りだけは、まだ奪われていない。
その時、スピーカーが鳴った。
無機質な声が区画番号を読み上げる。
続いて、金属扉がいくつか開く音。
看守の足音。
囚人のざわめきが、一瞬だけ色を変えた。
「……新しいのが来るぞ」
誰かが囁いた。
興味と警戒が混ざった声。
陸は反射的に、背筋を伸ばした。
嫌な予感がした。
この場所の“新入り”は、必ず誰かの餌になる。
さっき自分がそうだったように。
扉の向こうから、二人の囚人が押し出されてきた。
片方は背が低く、痩せている。
顔を殴られた跡があり、唇が切れている。
もう片方は、でかい。
骨格が太く、肩幅が異様に広い。
首輪が食い込んでいるのに、その男は首を鳴らし、まるで散歩に来たみたいな顔をしていた。
赤毛。
金色の瞳。
陸の呼吸が止まる。
(……ザイン)
昨日、壁際で見た。
いや、見間違いじゃなかった。
本当にいる。
この監獄に。
あの「六臂の悪魔」が、首輪を付けられて。
ザインは共同スペースの中央に立つと、周囲をぐるりと見回した。
視線の動きが、獣のそれだ。
誰が強い。
誰が弱い。
誰が噛みついてくる。
どこで殺す。
どこで逃げる。
そんな計算が、目の奥でひそひそと動いている。
「……おいおい」
誰かが笑った。
高い声。
軽い声。
若い連中の中でも、いちばん危険な種類の声。
「赤毛、ここじゃ目立つぞ」
「その目、ムカつくんだよ」
三人が前に出る。
筋肉質。
義手。
頬に刺青。
そして全員、目が濁っている。
生き残るために、他人を壊すことを選んだ目。
陸の腹が冷える。
(まただ)
この流れ。
新入りを叩いて、序列を作る。
痛みで支配する。
ここでは日常だ。
ザインは肩をすくめた。
まるで会話にすら価値がないみたいに。
その態度が、相手の癇に障った。
「無視かよ」
刺青の男が一歩近づく。
手が伸びる。
胸倉を掴む。
その瞬間。
ザインの頭が、ほんの僅かに傾いた。
視線が落ちる。
相手の足の位置。
重心。
呼吸。
癖。
(……狩る気だ)
陸は息を呑む。
ヘパイストスで見た“本物の捕食者”。
抑制されていても、その本質は変わらない。
刺青の男が笑った。
「ここじゃ首輪があるんだぞ」
「暴れると痛いんだよ」
ザインは口元を吊り上げた。
笑いというより、牙を見せる顔。
「痛いのが嫌なら」
「最初から触るな」
次の瞬間、ザインの額が相手の鼻を砕いた。
鈍い音。
血が弾ける。
刺青の男が仰け反った瞬間、ザインの膝が腹に突き刺さる。
空気が抜ける音がして、男が折れた。
首輪が光った。
熱が走る。
痛みが伝達されるはず。
だがザインは止まらない。
痛みを踏み潰すみたいに、踵で男の足首を踏み折った。
悲鳴。
床に転がる。
周囲の囚人たちが、ざわりと引いた。
恐怖が、波紋みたいに広がる。
看守が警告音を鳴らし、上のドローンがサイトを合わせる。
赤い点がザインの胸に揃う。
「やめろ」
無機質な声がスピーカーから落ちる。
ザインは両手を上げた。
降参のポーズ。
けれど、目は笑っている。
「触られたから返しただけだ」
その言い草に、囚人たちの中で笑いが起きかけて、すぐに飲み込まれる。
誰も笑えない。
笑ったら次は自分が壊される。
看守は沈黙し、やがて警告音が止んだ。
ドローンのサイトが外れる。
それが、タルタロスの“許容範囲”なのだと分かる。
殺さなければいい。
壊すだけならいい。
秩序の名で放置される暴力。
ザインは倒れた男を一瞥し、何事もなかったように歩き出した。
共同スペースの壁際。
陸がいる方向へ。
陸は身体が勝手に硬直するのを感じた。
敵。
味方。
ヘパイストスでは一時的に共闘した。
だが基本は敵だ。
次に会えば殺すと言っていた。
その男が今、ここに来る。
(どうする)
(跳べない)
(逃げられない)
陸は拳を握った。
痛みがまだ残っている。
でも、殴ることだけはできる。
やるしかない。
ザインは陸の前で立ち止まった。
近い。
金色の瞳が、壁みたいに迫る。
圧がある。
息が詰まる。
「……お前」
低い声。
ヘパイストスの地下迷宮で聞いた声。
生き残れ、と言った声。
陸は睨み返した。
「……なんだよ」
ザインは鼻で笑った。
「元気そうじゃねえか」
元気そう。
殴られて、跳べなくて、独房に放り込まれて。
その皮肉が腹に刺さる。
陸は吐き捨てる。
「元気に見えるなら、目が腐ってる」
ザインが、少しだけ口角を上げた。
嬉しそうに。
それが余計に腹立たしい。
「口は元気だ」
ザインは壁にもたれ、顎で周囲を示した。
「ここじゃ、それが大事だ」
「口が折れたら、身体も折れる」
陸は言い返しかけて、飲み込んだ。
正論だ。
この男の言葉は乱暴なのに、妙に現実を突く。
「……リラは」
陸が聞いた瞬間、ザインの目が一瞬だけ細くなる。
警戒。
そして、ほんの僅かな苛立ち。
「知らねえ」
短い。
切り捨て。
でも続きがある。
「ただ」
ザインは視線を逸らしたまま言った。
「ここで“情報屋”って呼ばれてる女がいる」
陸の心臓が跳ねた。
「……それって」
「さあな」
「俺も見てねえ」
「だが、その手の女は厄介者扱いされて隔離される」
隔離。
それは“生きている”という希望と、“酷いことをされている”という恐怖が同時に刺さる言葉だ。
陸の喉が乾く。
「……どこに隔離される」
「知らねえ」
ザインは即答した。
本当に知らない。
でも、考える気はある。
目がそう言っている。
「お前が探すなら」
「まずは、この場所のルールを覚えろ」
陸は唇を噛む。
ルール。
殴って勝つ。
従って生きる。
諦めて壊れる。
そんなルールを覚えるのか。
「嫌だ」
陸は低く言った。
「俺は、あいつを連れ出す」
ザインが、ふっと鼻で笑った。
「無茶言うな」
「無茶でもやる」
陸は言い切った。
言ってしまったら、後に引けない。
でも、後に引けないのは、最初からだ。
ザインはしばらく黙って陸を見ていた。
金色の瞳が、獲物を測る目から、少しだけ違う目に変わる。
使えるか。
信じるか。
利用できるか。
そういう目だ。
「……お前」
ザインが言う。
「跳べねえんだろ」
陸は頷いた。
屈辱が喉に詰まる。
「ここじゃ、力がない奴は死ぬ」
「分かってる」
「分かってねえ」
ザインの声が少しだけ強くなる。
「力がない奴は」
「死ぬ前に、壊れる」
その言葉の重さが、陸の胸に沈む。
壊れる。
心が。
人間が。
陸は拳を握り、震えを抑えた。
「……じゃあ、どうすればいい」
一瞬、ザインが驚いたように眉を上げる。
陸が“聞いた”ことに。
プライドを捨てて、教えを乞うたことに。
それから、ザインは小さく笑った。
「素直じゃねえか」
陸は睨む。
「笑うな」
「笑う」
ザインは肩を竦めた。
「ここじゃ笑えなくなったら終わりだ」
その言葉が、意外だった。
この男が“笑い”をそんなふうに言う。
戦闘狂じゃない。
生き方が、違うだけだ。
ザインは声を落とした。
周囲に聞こえないように。
「まず、味方を作れ」
陸が目を見開く。
「味方?」
「信用じゃねえ」
「利害だ」
ザインは淡々と言った。
「この監獄には、外へ出たい奴が山ほどいる」
「でも出られねえ」
「出る方法がないからじゃない」
「出る勇気がねえからだ」
陸の頭に、セレネで歌ったピクシーたちの姿が重なる。
声を上げる勇気。
恐怖より大きい決意。
その一歩で、世界は揺れた。
(ここでも、揺らせるのか)
陸が考えかけたところで、スピーカーが再び鳴った。
『区画点検。全囚人は定位置へ』
看守の足音。
ドローンの旋回。
共同スペースの空気が、また硬くなる。
囚人たちは散り、壁際へ張り付く。
誰もが余計なことをしない。
余計なことをすれば痛むから。
ザインは壁から離れると、陸に背を向けた。
去る気だ。
陸は思わず言った。
「……待て」
ザインが振り返らないまま、低く返す。
「何だ」
陸は言葉を探した。
助けてほしい。
一緒に逃げてほしい。
リラを助けたい。
でも、それをそのまま言ったら、この男は鼻で笑う。
綺麗事じゃ動かない。
貸し借りで動く。
利害で動く。
陸は、腹の底から言葉を引きずり出した。
「……借りがある」
ザインの足が止まる。
わずかに、首だけがこちらを向く。
「何のだ」
「さっき助けられた」
陸は言った。
屈辱を飲み込んで。
それでも、言った。
「返す」
ザインは少し黙ってから、吐き捨てるように言う。
「返さなくていい」
(じゃあ何だ)
陸が焦れた瞬間、ザインが続けた。
「その代わり」
「死ぬな」
短い。
乱暴。
でも、それは命令じゃない。
奇妙な忠告。
そして、薄い“認め”だ。
陸の胸が熱くなる。
悔しさと、恐怖と、希望が混ざった熱。
「……お前もな」
陸が言うと、ザインは小さく笑った。
「俺は死なねえ」
「何で言い切れる」
「死ぬほど間抜けじゃねえ」
どこかで聞いた言い回し。
リラと同じだ。
陸は思わず、笑いそうになって、慌てて口を引き結んだ。
ザインは視線を戻し、歩き出す。
去り際に、ぽつりと落とした。
「……情報屋の嬢ちゃんを探すなら」
「目立つな」
「でも」
「折れるな」
その言葉だけを残して、ザインは人の影に紛れていった。
陸は壁際に残され、呼吸を整えた。
胸の奥が痛い。
だけど、その痛みは絶望の痛みではない。
火が灯る痛みだ。
(リラ)
(待ってろ)
(俺は折れない)
上のドローンが赤い単眼をゆっくりと動かす。
監獄ユートピアの冷たい視線。
それを真正面から受け止めながら、陸は拳を握り直した。
奈落の中で、最悪の再会は起きた。
敵だった男が、今は“手段”になるかもしれない。
その事実が怖い。
でも同時に、前へ進むための足場にもなる。
(ここからだ)
陸は喉の奥でそう呟いた。
声にはしない。
声にしたら、監視に拾われる。
この場所では、決意ですら武器だ。




