第四話:戦う理由
共同スペースのざわめきが遠ざかると、耳の奥に別の音が残った。
金属が軋む音。
換気の低い唸り。
どこかで誰かが咳き込み、別の誰かが笑い声を殺す。
タルタロス・ピットの“日常”の音だ。
陸は壁に背を預けたまま、呼吸を整えていた。
首輪の存在が、皮膚の下でずっと主張している。
動くな。
逆らうな。
そう言われているみたいで、腹の底が煮える。
(でも)
(折れるなって)
ザインの最後の言葉が、胸の奥で残火みたいにくすぶっている。
折れるな。
目立つな。
矛盾している。
目立たずに折れないなんて、どうやってやる。
陸が考え込んだその時、後頭部に気配が落ちた。
背筋が反射で固くなる。
拳を握りかけて、首輪が熱を持った。
「……動くな」
低い声。
耳元で囁かれる。
ザインの声だった。
陸は顔だけを動かす。
見ると、ザインが壁沿いの影に立っていた。
さっき立ち去ったはずなのに、いつの間に戻った。
動きが静かすぎて、監視より先に気配を消す。
それがこの男の危険さだ。
「こっちだ」
ザインは顎で通路の奥を示した。
囚人たちの視線が届きにくい、配管の陰。
監視ドローンの赤い単眼も、死角になる場所。
陸は一瞬迷った。
信用できない。
でも今この場所で、信用できる相手なんていない。
信用の代わりに必要なのは、目的だ。
利害だ。
陸はゆっくり立ち上がった。
首輪がじり、と熱を持つ。
反抗の動きじゃない、と身体に言い聞かせるように、動作を小さくする。
その情けなさに歯が浮く。
配管の陰に入ると、空気が少し湿っていた。
蒸気が薄く漂い、金属の匂いが濃い。
ここなら声が漏れにくい。
ザインは壁にもたれ、腕を組んだ。
金色の瞳だけが、暗がりで光る。
「……で」
陸が先に口を開いた。
喉が乾いている。
それでも言う。
「何の用だよ」
ザインは鼻で笑った。
「用がなきゃ来ちゃいけねえのか」
「ここじゃ、何でも理由がいる」
陸が言うと、ザインは一瞬だけ黙った。
それから、ぽつりと言った。
「正しい」
その一言が意外で、陸は眉をひそめた。
ザインは続ける。
「ここじゃ殴るにも理由がいる」
「奪うにも理由がいる」
「助けるにも、な」
陸はその言葉に、胸の奥がちくりと痛んだ。
助けるにも理由がいる。
セレネで陸がやったことは、理由の塊だった。
正義。
同情。
怒り。
全部、理由だ。
でもこの男が言っているのは、それとは違う。
もっと乾いた理由。
生きるための理由。
陸は唇を舐めた。
「……じゃあ」
「俺を助けた理由は何だ」
問いを投げた瞬間、胸が強張る。
返ってくる答えが怖い。
「気まぐれだ」と言われたら、心が折れそうになる。
「利用価値がある」と言われたら、納得できるのに腹が立つ。
自分でも矛盾してる。
ザインは金色の瞳を細めた。
笑っているようで、笑っていない。
「貸し借りだ」
予想通りの答え。
でも陸は納得できない。
「それだけかよ」
陸が食い下がると、ザインはため息をついた。
「……しつけえな」
そう言いながら、どこか面倒を見てやるみたいな顔をする。
その顔が、余計にムカつく。
「じゃあ逆に聞く」
ザインが言った。
「お前は何で、あの女を探す」
陸は反射で答えそうになって、止めた。
ここでは言葉が武器だ。
でも、この男にだけは、嘘が通じない気がした。
嘘をつくと、すぐに見抜かれて殴られる。
そんな確信がある。
陸は息を吸った。
「……相棒だからだ」
言った瞬間、胸が熱くなる。
照れくさい。
でも嘘じゃない。
ヘパイストスで結んだ契約。
セレネで噛み合った二人の力。
そして「一緒に戦う」と言った自分の言葉。
「俺が守るって決めた」
陸が続けると、ザインが小さく笑った。
「守る、ねえ」
馬鹿にしている笑いじゃない。
どこか懐かしむみたいな笑い。
それが気持ち悪くて、陸は眉をひそめる。
「……何だよ」
ザインは笑いを消して、視線を落とした。
そして、ぽつりと呟く。
「俺も、守るもんがある」
陸は言葉を飲み込んだ。
この男が、自分からそんなことを言う。
それだけで、空気が変わった。
配管の陰で、蒸気がしゅう、と鳴る。
その音に紛れるように、ザインは続けた。
「故郷に妹がいる」
短い。
淡々としている。
なのに、妙に重い。
「病気だ」
陸の喉が、きゅっと締まる。
「治療には金が要る」
「俺が稼がなきゃ、あいつは死ぬ」
それだけ言って、ザインは黙った。
金色の瞳が、遠くを見る。
この監獄の壁ではない。
もっと遠い場所。
帰れない星。
そこで待っている誰か。
陸は言葉を探した。
慰めは薄っぺらい。
同情は嫌われる。
でも、黙っているのも違う。
「……だから金に執着してたのか」
陸がようやく出した言葉に、ザインは鼻で笑った。
「執着じゃねえ」
「必要だ」
必要。
それがこの男の世界だ。
綺麗事ではなく、必要で動く。
でもそれは、冷たいだけじゃない。
必死だ。
必死で、生きている。
陸は拳を握った。
自分だって必要で動いている。
帰りたい。
地球へ。
家族のいる場所へ。
それが必要だ。
でも、それだけじゃない。
ここに来てから、必要が増えた。
リラ。
あのピクシーたち。
見捨てられなかったもの。
「……俺も」
陸が言いかけると、ザインが視線を戻した。
金色の瞳が、まっすぐ刺さる。
逃げられない。
陸は腹を括った。
「俺も、帰りたい」
「地球って星に」
「戻らないと、俺はずっと異邦人のままだ」
言葉にすると、喉が痛い。
弱音みたいで。
でも、弱音じゃない。
これが自分の芯だ。
「それに」
陸は続ける。
「……あいつがいる」
リラ。
名前を言うと、今は危険だ。
でも心の中でははっきり言える。
「俺がいないと、あいつは平気な顔して死ぬ」
言い切った瞬間、自分でも驚くほど確信があった。
リラは強い。
でも強いからこそ、限界まで無茶をする。
ヘパイストスでそうだった。
セレネでもそうだった。
一人で全部背負える顔をする。
それが怖い。
ザインはしばらく黙っていた。
やがて、短く言った。
「……なるほど」
そして、少しだけ口角を上げる。
「お前らしい」
褒めているのか馬鹿にしているのか分からない。
陸はむっとした。
「何だよ、それ」
「綺麗事じゃねえってことだ」
ザインが言う。
意外と真面目な声だった。
「守りたいって言いながら」
「自分も救われたいんだろ」
陸は息を呑んだ。
図星だった。
自分は強いふりをして、実は誰かに繋がっていないと崩れる。
リラの手の温度がないと、怖い。
その事実を突かれて、頬が熱くなる。
「……悪いかよ」
陸が吐き捨てると、ザインは肩をすくめた。
「悪くねえ」
「そういうのは、強い」
強い。
この男が、自分にそんな言葉を使う。
陸は胸の奥がじん、とするのを感じた。
嬉しいわけじゃない。
でも、認められると立てる気がする。
「……で」
陸は話を戻した。
「お前は何で、ここにいる」
ザインの目が僅かに冷える。
それは怒りじゃなく、悔しさだ。
「仕事が罠だった」
「オーダーに嗅ぎつかれて、逃げた先で囲まれた」
「殺した」
淡々とした一言。
でもその裏に、いくつの血があるのか想像するだけで胃が冷える。
「殺しても終わらねえ」
ザインは吐き捨てる。
「物量で潰してくる」
「最後は、こうだ」
首輪を指で軽く叩いた。
金属が、乾いた音を立てる。
陸は歯を食いしばった。
クロノス・オーダー。
あいつらは人を“捕まえる”。
殺すより先に、檻に入れて支配する。
それがあいつらのやり方だ。
(リラも)
(俺も)
怒りが、胸の底で燃える。
その燃え方が、ザインにも伝わったのかもしれない。
彼は少しだけ声を落とした。
「ここから出たら」
「俺は金を取りに行く」
妹の治療費。
そのための金。
その“必要”が、この男を動かしている。
「お前は?」
ザインが問い返す。
陸は迷わず言った。
「リラを連れ出す」
「それから、俺の力を取り戻す」
「取り戻して、帰る」
言い切ると、胸の奥で歯車が噛み合う感覚がした。
目的が並んで、一本の線になる。
ここで折れるわけにはいかない。
ザインは鼻で笑った。
「欲張りだな」
陸も鼻で笑い返した。
「お前に言われたくない」
一瞬だけ、空気が軽くなる。
ほんの一瞬。
監獄の冷たさの中で、あり得ないほど人間的な瞬間。
でも、すぐに現実が戻る。
遠くで警告音。
看守の足音。
ドローンの旋回。
ザインが壁から離れた。
「……時間だ」
陸も頷く。
この会話が長すぎれば、誰かに嗅ぎつかれる。
利害を結ぶ前に潰される。
陸は最後に、どうしても聞きたいことを聞いた。
「……妹」
「名前は?」
ザインの足が止まる。
一瞬だけ、金色の瞳が柔らかくなる。
柔らかくなるのに、痛い。
「ミナ」
それだけ言って、ザインは視線を逸らした。
照れ隠しみたいに。
あるいは、弱さを見せたくないみたいに。
陸は胸の奥で、その名前を反芻した。
(ミナ)
守るもの。
必要なもの。
自分だけじゃなく、こいつにもある。
それが分かっただけで、タルタロスの空気が少しだけ違って見えた。
「……なあ」
陸が呼び止めると、ザインは振り返らずに言う。
「何だ」
陸は一瞬迷って、でも言った。
「ここから出る方法」
「あるのか」
ザインは短く笑った。
「ある」
「ただし」
「生き残った奴だけが」
その言い方は相変わらず乱暴で、現実的で、そしてどこか希望みたいだった。
ザインは歩き出しながら、最後に投げた。
「明日」
「労働区画で目を閉じるな」
「目を閉じたら終わりだ」
陸は頷いた。
言葉にすると監視に拾われる気がして、声にはしない。
(目を閉じない)
(折れない)
(リラを連れ出す)
配管の陰に残った蒸気の匂いの中で、陸は拳を握り直した。
痛みが残っている。
それでも。
胸の奥の火は、さっきより確かに大きい。




