第二話:異邦人のための檻
リラの指が止まらない。
モニターの海に、無人小惑星M―77のデータが沈んでいく。
軌道要素。
周辺宙域の通信量。
流通ログ。
星間管理局の監視網。
そのどれもが、微妙に“空白”を抱えている。
「……ねえよな、普通」
陸がぼそりと言う。
自分で言って、自分の声が乾いているのに気づく。
「普通は、ない」
リラは即答した。
言い切り方が、やけにきっぱりしている。
不安を切り捨てるための言葉みたいに。
部屋の換気ファンが唸り、薄い油の匂いが漂う。
アルカディア・ネクサスの夜は今日も眠らず、壁の向こうの通りからは、遠くに笑い声とエンジン音が混ざって聞こえる。
その喧騒が、逆にこの部屋の静けさを強調していた。
準備はあっという間だった。
リラが必要物資をリスト化し、足りないものは闇市の即配に回す。
陸は呼ばれた通りに荷物をまとめ、防護服の点検をし、右腕のチップ周りの皮膚感覚を確かめる。
跳躍の前にやることが、いつの間にかルーティンになっていた。
怖さは消えない。
でも、怖いまま動けるようになった。
それが成長なのか、麻痺なのか、陸にはまだ分からない。
そして出発の直前。
リラはコンソールの電源を落とし、振り返らずに言った。
「いいか」
声が低い。
いつもの“仕事の声”だ。
「着いたら周囲の確認を最優先」
「私は通信状況を見る」
「不自然があったら、その場で撤退」
陸は頷いた。
「撤退の座標は?」
「ここ」
リラは隠れ家の座標を、陸の端末に飛ばす。
帰り道の鍵を先に握らせる。
情報屋らしい用心。
それが逆に、今回の“危険”の濃さを知らせてくる。
「……行くぞ」
陸はリラの手を取った。
いつもみたいに抱える必要はない。
この星では酸の雨も重力差もない。
ただ、手だけでいい。
彼女がここにいると分かるように。
リラは一瞬だけ、握られた手に視線を落とす。
それから何も言わずに、指を絡め返した。
その小さな力が、陸の腹を据えさせた。
目を閉じる。
M―77。
無人小惑星。
放棄された研究施設。
神々の涙。
冷たい金属の匂い。
真空の静けさ。
砂ではなく、粉塵。
光は弱い。
重力は低い。
身体が少し浮く感覚。
イメージが組み上がる。
右腕の内側が、熱を持つ。
青白い光が二人を包んだ。
世界が、裏返る。
――次の瞬間。
陸は、息を吸って凍りついた。
砂の感触がない。
潮の香りもない。
ネオンの匂いもない。
足裏にあるのは、冷たい金属。
湿り気のない、磨かれすぎた床。
部屋は狭い。
四方を同じ材質の壁が囲み、天井には白い光のラインが走っている。
研究施設?
いや、違う。
研究施設の“入口”というより、何かを入れるための箱だ。
「……ッ」
リラが息を呑む音がした。
陸は反射的に彼女の肩を引き寄せ、壁際へ寄る。
逃げ道を探す。
ない。
扉が見当たらない。
継ぎ目のない壁。
空調の音すらしない。
静寂が、耳を押す。
「……マズい」
陸が呟いた瞬間、右腕がじくり、と痛んだ。
チップが熱を持ち、しかし光らない。
いつもの“応え”がない。
「跳べない……?」
陸は必死に意識を沈める。
隠れ家の座標。
アルカディアの匂い。
帰還のイメージ。
力を引き出す。
――反応が、ない。
代わりに、耳の奥で低い振動音が鳴った。
空気ではなく骨に響くような、嫌な音。
身体の芯にまとわりつく。
リラが歯噛みした。
「抑制フィールド……」
その言葉が落ちた瞬間、壁の一面が黒く変わった。
モニター。
そこに、白い輪郭の映像が映る。
椅子に座る男。
整った黒髪。
端正な顔。
肌は不自然なほど白い。
笑みは柔らかいのに、目が笑っていない。
背後に見えるのは、幾何学模様のような巨大な装置群。
あれが、フィールドの制御装置なのだと分かる。
男はゆっくりと口を開いた。
「ようこそ」
声が滑らかで、優しい。
聞く者を安心させるために調整された音。
それが逆に、陸の胃を冷たくした。
「歓迎しますよ。星渡りの異邦人」
陸の心臓が一拍遅れた。
言葉が、狙い撃ちだ。
自分に向けた名前。
予言の言葉。
「……誰だ」
陸は声を絞り出す。
リラは一歩前へ出た。
画面を睨み、鋭く言う。
「名乗れ」
男は微笑んだまま、軽く頭を下げる。
「カシウス」
それだけ。
姓も、肩書きもない。
名乗りが“足りない”のに、なぜか十分に感じる。
この男にとって、こちらに説明する義務などないという態度が透けるからだ。
「クロノス・オーダー上級執行官」
続いて、その言葉を自分で付け足した。
まるで親切のふりをして。
リラの拳が、かすかに震えた。
陸はその震えを見て、背中に汗が滲む。
「……なるほど」
リラが吐き捨てる。
「亡霊が、とうとう顔を見せたか」
カシウスは笑った。
「亡霊とは酷い」
「我々は歴史の秩序を守っています」
「あなたのような人が“秩序”を嫌うのは、理解できますが」
その視線が、陸に移る。
画面越しなのに、まるで直接触れられたみたいに、皮膚が粟立つ。
「あなたは希少です」
「この銀河に、あなたほど“歪み”をもたらす存在はいない」
歪み。
陸の中で怒りが立ち上がる。
自分はただ帰りたいだけだ。
望んで来たわけじゃない。
それなのに、勝手に意味づけされる。
「ふざけんな」
陸は一歩前へ出た。
抑制フィールドのせいで、いつもの万能感はない。
それでも、拳だけは握れる。
「俺は――」
言いかけた言葉が、喉で止まった。
リラが陸の袖を引いたからではない。
頭の奥を、細い針で突かれたみたいな痛みが走ったからだ。
カシウスの視線が、リラへ滑る。
そして声色が、ほんの僅かに変わる。
甘さが消え、鋼みたいな冷たさが混じる。
「……そして、あなた」
「裏切り者の末裔」
リラの顔から血の気が引いた。
それでも、彼女は目を逸らさない。
紫紺の瞳が、怒りと憎しみで濃くなる。
だけど、陸には分かる。
その下に、恐怖がある。
過去に触れられた時の、どうしようもない恐怖が。
「……黙れ」
リラの声は低い。
音が削られて、刃みたいになっている。
「私の血を語るな」
カシウスは肩を竦めた。
「語る必要はありません」
「あなた自身が、その証拠です」
モニターの横に、情報が浮かぶ。
リラの顔写真。
識別コード。
出生記録の断片。
まるで彼女の人生が、管理台帳の一枚に過ぎないみたいに並べられていく。
陸の中で、何かが切れた。
リラを“データ”にするな。
その怒りは、ウロボロスで殴られた時の怒りよりも純粋だった。
「やめろ!」
陸は画面へ叫ぶ。
叩き割るみたいに拳を振り上げる。
けれど、拳は壁を叩いただけで鈍い音を立てる。
壁は傷一つつかない。
まるで、最初から勝負になっていない。
カシウスは穏やかに言った。
「落ち着いてください」
「私はあなた方を殺すつもりはありません」
「嘘だろ」
陸が吐き捨てる。
カシウスは、ため息のように微笑む。
「本当です」
「我々は破壊ではなく、回収を目的としています」
「価値あるものは、壊しません」
価値。
また、値踏みの言葉。
アルカディアの値札より、ずっと冷たい値札。
「……何が目的だ」
リラが言った。
声が震えていない。
怖くても、震えを殺せる。
それが彼女の強さだ。
カシウスは少しだけ首を傾げる。
「目的は“保全”」
「混沌から歴史を守る」
「あなた方の行動が、どれほどの影響を持つか」
「あなたは理解していない」
その言葉が、陸の胸を刺す。
理解したくない。
でも、理解しないままでは殺される。
カシウスの背後で、装置が淡く光った。
振動音が強くなる。
陸の右腕が熱を持つのに、光が出ない。
封じられている。
完全に。
「今から、あなた方は移送されます」
カシウスが告げる。
「ここはM―77ではありません」
「正確に言えば、M―77宙域の監禁施設」
「そして次にあなた方が目を覚ます場所は――」
一拍。
その間が、やけに丁寧だ。
恐怖を味わわせるための間。
「タルタロス・ピット」
リラが目を細める。
「監獄ユートピア……」
陸は喉が鳴る。
監獄。
ユートピア。
言葉が矛盾しているのに、なぜかしっくり来る。
この銀河は、そういう矛盾で動いている。
笑顔で奴隷を管理し、楽園で搾取を隠し、秩序の名で自由を奪う。
「……ふざけんな!」
陸は叫ぶ。
叫ぶしかない。
ここで負けたら終わりだ。
そう思って、必死に右腕へ意識を集中させる。
隠れ家。
リラ。
帰りたい。
守りたい。
イメージを重ねる。
その瞬間。
頭が、ぐらりと揺れた。
視界が滲む。
耳鳴りが膨らみ、世界が遠ざかる。
「陸!」
リラが叫んだ。
その声が、薄い膜越しに聞こえる。
床から微かな霧が立ち上り、二人の足元を這う。
麻酔ガス。
甘い匂いがした。
セレネの花の香りとは違う。
脳を溶かす、化学の甘さ。
陸は膝をつき、呼吸を止めようとする。
でも肺が勝手に吸ってしまう。
身体が言うことを聞かない。
「くっ……!」
リラはフードを引き、口元を押さえた。
けれど遅い。
既に吸っている。
彼女の身体が揺れた。
カシウスは、最後まで優しい声で言った。
「安心してください」
「あなた方には、役割があります」
役割。
まただ。
決めつける。
奪う。
値札を貼る。
陸の視界の端で、リラが歯を食いしばっているのが見えた。
怒りに耐える顔。
その横顔が、陸の胸を焼いた。
(守るって言っただろ)
(相棒だって言っただろ)
言葉にできない。
舌が重い。
視界が黒く落ちていく。
それでも陸は、最後の力でリラの手を探し、掴んだ。
指先が触れた瞬間、彼女の指が、同じように握り返す。
それだけで、少しだけ世界が繋がった。
暗闇の底へ落ちる直前。
陸は、カシウスの目を見た気がした。
あの目は、優しくなかった。
冷たいのに、熱を持っていた。
信仰の熱。
正義の熱。
いちばん危ない種類の熱。
(……俺たちは)
(どこに連れていかれる)
答えは、もう分かっている。
タルタロス・ピット。
奈落。
陸の意識は、その名と一緒に沈んでいった。




