第七十二話 神域裂雷
福岡県太宰府。太宰府天満宮の神域は、普段ならば梅の香と静謐な気配に満ち、訪れる者の心を穏やかに整える場所であった。だがその日、空気は明らかに異常だった。見えない圧力が境内全体を押し潰し、風が止まり、鳥の声さえ消えていた。
雷神の視線が空を睨む。
「……あの姿、落武者か?」
風神が扇のような風袋を握り直しながら首をかしげる。
「落武者にしてはエネルギーがおおいのじゃ」
その中心に立つ彩葉の表情が固まる。黒と紫が混ざるような異質な気配。それはこれまで出会ってきた想霊とも違う、もっと“歪んだ意志”そのものだった。
「……このオーラ……怪鬼!?」
その名を口にした瞬間、空気がさらに重く沈む。
菅原道真公も静かに目を細めた。
「……!?」
空間の裂け目が、音もなく広がった。
そこから“黒い穴”が呼吸するように脈動し、やがて姿を現す。
怪鬼。
全身は人型に近いが、完全な存在ではない。どこか“壊れた歴史”のように歪み、鎧とも肉体ともつかない黒い装甲が蠢いている。顔には表情がない。だが確かに“見下している意志”だけがあった。
「……フム…………神ヲ消シニ来タガ……彩葉、ト言ッタカ……後デ消スツモリダッタガ……チョウドイイ…………今、共ニ消シテヤロウ!」
彩葉が一歩下がる。
その背を守るように、風神と雷神が前に出る。
菅原道真公は静かに問う。
「狙いはボクかい?ボクに勝てると思っているのかい?」
怪鬼の首がわずかに傾く。
「アァ、オマエヲ倒シ、千手観音ヤ不動明王、アシュラ、天照皇大神、アノ神ヤ仏ニ挑ム……ソノ礎トナレ」
雷神が鼻で笑った。
「おいおい、あいつバカなのか」
風神もうなずく。
「うむ、正気とは思えん」
怪鬼の足元から、黒い亀裂が走る。
「我、断界同盟・幹部「怪鬼」……イザ!参ル!!」
その瞬間、世界が破裂した。
――轟音。
神域そのものが歪み、空間が波打つ。
菅原道真公は即座に手を掲げた。
「……彩葉、風神、雷神、下がっていてくれ、ここはこのボク、菅原道真公が行こう……」
しかしその声が終わるより早く、怪鬼が動いた。
一瞬だった。
視界から消えたと思った次の瞬間、道真公の横に“穴”が開く。そこから黒い腕が伸び、神力の防御を無視して掴みに来る。
「っ……!」
道真公が結界を展開するが――遅い。
結界が“触れた瞬間から侵食される”。
雷神が叫ぶ。
「道真公!!」
風神が風刃を放つ。
しかし風刃は怪鬼に届く前に、空間ごとねじ曲げられて消えた。
「なっ……風が……消されたじゃと!?」
彩葉が息を呑む。
「そんな……!」
怪鬼の声が低く響く。
「神ノ力モ、結界モ……断界ノ前ニハ無意味ダ」
次の瞬間、菅原道真公の身体が大きく弾き飛ばされた。
地面を滑り、神域の柱に叩きつけられる。
「ぐっ……!」
初めて見せる苦悶の表情。
風神と雷神が同時に動く。
風と雷が交差し、怪鬼へと叩き込まれる。
だが――
怪鬼の前に“黒い面”が浮かぶ。
攻撃はその面に吸い込まれ、消えた。
「無駄ダ」
一歩。
怪鬼が踏み出す。
その一歩だけで、神域の床にヒビが走る。
彩葉の胸が強く締め付けられる。
「このままじゃ……!」
菅原道真公がゆっくり立ち上がる。
「……なるほどね」
声は静かだった。
だが、その静けさの裏に“怒り”があった。
「神域を壊す気か……それは困るな」
手を合わせる。
梅の花が一瞬だけ光る。
「なら、少し本気を出そうか」
その瞬間――
怪鬼の背後に“裂け目”が生まれた。
雷神が叫ぶ。
「後ろじゃ!!」
だが遅い。
怪鬼の腕が再び伸び、道真公の胸元を貫こうとする。
「……ッ!」
菅原道真公は結界を“二重に展開”した。
だが――
怪鬼の力はそれを破った。
「……っ、これは……」
結界が“内側から崩壊”する。
菅原道真公の表情に、初めて焦りが浮かぶ。
風神が震える声で言った。
「結界が……食われておる……!」
雷神も歯を食いしばる。
「まずいぞこれは……!」
怪鬼の腕がゆっくりと迫る。
「神モ仏モ……壊ス」
菅原道真公の胸元に、黒い指が届こうとした、その瞬間――
神域全体が大きく“鳴動”した。
しかし、それは反撃ではなかった。
防御でもない。
“歪みの拡大”。
怪鬼の力が、神域そのものを侵食し始めていた。
菅原道真公の結界が、ゆっくりと――裂けていく。
「……これは……まずいね……」
その声は、かすかに震えていた。
彩葉が叫ぶ。
「道真公さん!!」
風と雷が再び走る。
だが、その全てが“届かない距離”へと世界がずれていく。
怪鬼が静かに言った。
「終ワリダ」
――神域に、黒いひびが広がった。
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