第五十五話 「平和の灯と名を背負う者」
広島県広島市。
海風が街を撫で、夕方の光がゆっくりとビルの間に沈んでいく。かつての記憶を抱えた土地は、今は人の声と穏やかな日常に満ちていた。
アビと名乗る翼のある少女に導かれ、彩葉はその街を歩いていた。空を滑るように移動する感覚はまだ慣れないが、不思議と恐怖はなかった。風の中に混じる温かさが、ここがただの戦場ではないことを語っているようだった。
「到着なの」
アビが嬉しそうに羽を揺らす。
「ここが広島……とても美しいところですね」
彩葉は素直な感想をこぼした。川面に反射する夕日、整えられた街並み、人々の穏やかな歩調。それらすべてが調和していた。
「そうなの。アビのお気に入りの場所でもあるなの」
アビは誇らしげに胸を張ると、小さく手招きした。
「面白いことって……?」
彩葉が尋ねると、アビは少しだけ真面目な顔になる。
「会わせたい人がいるなの。ついてくるなの」
その言葉に、彩葉は頷いた。
やがて二人は静かな場所へと足を運ぶ。木々が整えられた道を抜けると、空気の密度が少しだけ変わった。
「ここは……平和記念公園?」
看板に刻まれた文字を読み、彩葉は足を止める。
「なにしてるなの?行くなの」
アビは気にせず前へ進む。その背中を追いながら、彩葉は胸の奥に微かな違和感を覚えていた。街の明るさとは異なる、静かすぎる空気。
しばらく歩いた先、石造りの碑が見えた。
「慰霊碑」
その前で、一人の少女がしゃがみ込み、静かに手を合わせていた。
黒い装甲のような服装。必要最低限の防具のような意匠。二本の猫のような尻尾が風に揺れている。
「おーいなのー!灰原~」
アビの明るい声が響いた。
少女はゆっくりと顔を上げる。
「……アビですか。ここは神聖な場所です。もう少し静かにしてください」
落ち着いた声だった。怒っているわけではなく、ただそこにある空気を乱したくないという意志だけがあった。
「ごめんなの……紹介したくて」
「その方ですか?」
少女の視線が彩葉に向けられる。
「そうなの」
アビの言葉に、彩葉は一歩前へ出た。
「バッグの守護者……彩葉です」
少女はしばらく無言で見つめた。
「……最近の子、ですね」
小さく呟く声。だがその視線は、ただの興味ではなかった。
(とてつもない……希望エネルギー。アビはこれを……)
少女の内側で、静かな計算のような思考が走る。
「灰原、あれを彩葉に見せてほしいの」
アビが言うと、少女は軽く目を閉じた。
「わかりました。ただし、場所を移します。ここは静かにする場所ですから」
三人は歩き出した。
やがて、海に近い浜辺へとたどり着く。街の喧騒は遠く、波音だけが世界を支配している。
「ここで、なにするんですか?」
彩葉が尋ねると、少女は砂の上に立ち、空を見上げた。
「見ていてください」
少女は静かに右手を掲げた。
空気がわずかに震える。
「すぅ……発射」
その瞬間、空へ向かって光の粒が放たれた。
ヒュウゥゥゥ……パァァァァン……
遅れて広がる音と共に、空に花が咲いた。
赤、青、白、そして淡い金色。
夜ではないはずの空に、花火が咲き誇る。
「わぁ……!あれはなんです?」
「花火なの~!」
アビが嬉しそうに叫ぶ。
「花火……!」
彩葉は目を輝かせた。
空に散る光は一瞬で消えてしまうのに、確かにそこに“残るもの”があった。
「防音の術はかけています。まだ夕方ですから、本来なら見えにくいでしょうが……」
少女は淡々と語る。
「それでもすごいです!」
彩葉の声に、少女はわずかに目を細めた。
「そう。喜んでくれてありがとう」
そして、少し間を置いた後、少女は静かに言葉を続けた。
「……まだ、言っていませんでしたね」
空気が少しだけ変わる。
彩葉はその声に、自然と姿勢を正した。
「私は――原子爆弾の守護者、灰原」
風が一瞬だけ止まったように感じられた。
「その名に、罪を背負うものです」
波の音だけが戻ってくる。
彩葉はすぐに言葉を返せなかった。
ただ、空に散った光と、静かに立つ少女を見つめていた。
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