第百五十二話 山風の道と呼びかける声
中国へ入ってからの山道は、ベトナム側よりもさらに静かだった。
木々の背が高く、葉は厚く、空を見上げても青は細く切り取られるだけ。地面には細かな石が混じり、乾いた土と、朝露の残る草が入り交じっている。
彩葉は足元を確かめながら、ゆっくりと道を進んでいた。
「……まだ、人のいるところじゃないみたいだなぁ」
ひとりで呟く声は、風に溶けて消えていく。
国境を越えたばかりで、すぐに街へ出るわけでもない。今はただ、山の斜面に沿った細い道を歩き続けているだけだった。けれど、その静けさが不思議と嫌ではない。むしろ、旅の途中でようやく呼吸できるような、そんな落ち着きがあった。
山の向こうから、かすかな川音が聞こえてくる。
その音を頼りに歩くと、ほどなく小さな沢に出た。石の間をぬって流れる水は冷たく、澄んでいて、底の丸い石まで見える。
「きれい……」
彩葉はしゃがみ込み、手のひらを水に浸した。
指先が引き締まるように冷える。
旅の疲れが少しだけ抜けていくような気がした。
しばらくその場で休んだあと、再び立ち上がる。
まだ先は長い。
ここで止まる理由もないし、何より自分には行く場所がある。断界同盟を追う。そう決めてから、足取りに迷いは少なくなっていた。
「中国かぁ……」
空を見上げる。
日本、フィリピン、インドネシア、マレーシア、タイ、ベトナム。
それぞれの国で出会った守護者たちの顔が思い浮かぶ。
やさしい人ばかりだった。
強くて、優しくて、どこか不器用で。
あの人たちが守っていた景色を思い出すたび、自分も何かを守りたい気持ちが強くなる。
「次は、どんな景色かな」
そう言って歩き出したときだった。
不意に、風の向きが変わる。
山の斜面を上っていたはずの空気が、ふっと止まるような感覚。
彩葉は足を止めた。
「……?」
誰かの気配。
いや、それだけではない。
とても軽い足音が、どこか近くで聞こえた気がした。
振り返っても、見えるのは木々と岩ばかり。人の気配はまだ見えない。
けれど、確かに誰かがこちらを見ているような感覚がある。
彩葉は少しだけ身構えた。
すると、山道の先から声がした。
「そこの旅の人」
彩葉は目を丸くする。
「え?」
声はまだ若い。けれど、落ち着いていて、妙に耳に残る。
「ひとりで山を歩くのは、あまり良くないよ」
姿はまだ見えない。
彩葉は思わず声のした方へ視線を向けた。
「だ、誰ですか?」
返事はすぐには来ない。
木々の向こう、少し高い岩場のあたりで、何かが静かに動いた気配だけがした。
彩葉は一歩だけ近づく。
だが、その先にあるのは、まだ見えない影。
風がまた吹いた。
葉がざわめく。
そして、声はもう一度だけ静かに響いた。
「この先には、気をつけた方がいい」
その言葉を聞いた瞬間、彩葉はまっすぐにその気配を見つめた。
まだ姿は見えない。
けれど、そこに誰かがいるのははっきりとわかる。
中国の山道で、彩葉は思いがけない呼びかけに足を止めていた。
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