第百五十一話 国境の先に広がる静かな山道
ベトナムとの国境を越えた先は、思っていたよりも静かだった。
山の稜線は濃い緑に包まれ、朝の光がまだ柔らかく谷間へ差し込んでいる。
彩葉は国境の境界線を越えたあと、少しだけ立ち止まって振り返った。
ベトナム側の景色はもう遠く、薄い霧の向こうへ消えかけている。
「……中国、か」
その言葉は、まだ実感が半分しかない。
けれど、空気の匂いが確かに変わっていた。
山の冷たさと、土の乾いた香り。
そして、どこか広い大地に踏み込んだような感覚。
彩葉はバッグを軽く握り直し、ゆっくりと前を向く。
ここから先は中国。
だが、すぐに人のいる場所へ出るわけではない。
いま進んでいるのは、国境近くの山道だった。
道というより、山肌に沿って作られた細い踏み跡。
草はまだ朝露を抱え、足を踏み出すたびにしっとりと湿っている。
「ここも……自然がすごいなぁ」
彩葉はひとりごとのように呟いた。
木々は高く、葉は厚く、空を見上げても一部しか見えない。
鳥の声は聞こえるが、人の気配はほとんどない。
ただ遠くで、風が山を渡っていく音だけが響いている。
彩葉はしばらく慎重に歩いた。
石が転がりやすい斜面。
ところどころにある苔むした岩。
足元に伸びた根。
こういう場所は、うっかり気を抜くとすぐに転びそうになる。
「気をつけないと」
小さく息をつきながら、一歩ずつ進む。
すると、道の脇に小さな花が咲いているのが見えた。
淡い紫色の花びらが朝露を弾いている。
「わぁ……きれい」
彩葉は自然と足を止めた。
旅を始めてから、こういう小さな風景に目が向くようになった気がする。
どこかへ急ぐ途中でも、立ち止まってしまう。
そうして、その土地の色を少しずつ覚えていく。
山道はやがて少しずつ下りに変わった。
木々の隙間から、遠くの谷が見える。
深い緑の向こうに、川のような銀色の線が光っていた。
「あそこ、川かな……」
その景色を見ながら、彩葉は思う。
中国に入った、といっても、まだまだ広い。
守護者がいる場所へ向かうには、まずこの山を抜けなければならないのだろう。
けれど、急ぐ必要はない気もした。
この道の静けさは、少し心を落ち着かせてくれる。
国が変わるたびに出会いも変わる。
でも、こうして一人で歩く時間もまた大切だ。
「次は、どんな人に会えるんだろう」
その呟きは、山風にさらわれて消えた。
歩いていると、岩場の向こうから小さな水音が聞こえてきた。
彩葉が近づくと、細い湧き水が岩の間から流れ出している。
透明な水。
冷たく、澄んでいる。
彩葉は手を伸ばして少しだけ触れた。
「……つめたい」
その冷たさが、国境を越えて張りつめていた気持ちを少しだけ解いてくれる。
しばらくその場で休んだあと、彩葉はまた歩き出した。
山道はゆるやかに続いている。
まだ人のいる場所は見えない。
けれど、どこかで誰かが暮らしている気配は、確かに感じられる。
もしかすると、ずっと先に小さな集落があるのかもしれない。
それでも今は、まだ静かな山の中。
木々が揺れ、川が流れ、鳥が鳴き、空気だけがゆっくりと動いている。
彩葉はその中をひとり進んでいく。
中国へ入ったばかりのこの道は、まだ始まりにすぎない。
けれど、その始まりの静けさが、なぜか少しだけ心強かった。
彩葉はバッグを背負い直し、また前を向く。
人のいる場所は、もう少し先。
今はまだ、この山の静かな道を歩いていく。
ここまで読んでくれてありがとうございます。
次回もお楽しみに




