第百五十話 国境へ向かう夜明けの道
ベトナムの夜は、思っていたよりも静かだった。
昼間の市場の喧騒も、人里の温かい声も遠ざかり、今は夜風が葉を揺らす音だけが彩葉の周囲を満たしている。
村を出たあと、彩葉はしばらく振り返らずに歩き続けていた。
ベトナムで出会った人々の顔、ハスの静かな眼差し、森の奥に潜んでいた歪んだ気配。
そのどれもが胸の中に残っていて、簡単には消えてくれそうになかった。
「……行こう」
小さく呟くと、足元の闇がわずかに揺れる。
だが、もう迷ってはいない。
次の目的地は中国。
そして、その先にはまだ見ぬ守護者がいるはずだ。
彩葉は電子地図を開き、夜の道を確かめる。
「えっと……このまま北へ進めば、国境の方に近づくんだよね」
これまでの旅で何度も国をまたいできたが、それでも“新しい国へ向かう”という感覚には慣れない。
歩くたびに、空気が少しずつ変わる。
言葉も、人も、匂いも、景色も違う。
それが少し怖くて、けれど楽しい。
「中国……どんなところなんだろう」
彩葉はそう言って、軽く息を吐いた。
森を抜けると、細い街道に出る。
遠くでは小さな灯りがいくつも揺れていて、そこに暮らしている人々の気配が静かに伝わってきた。
夜明け前の空はまだ深い紺色をしているが、東の端にはうっすらと白みが差し始めている。
彩葉はその薄明かりを見上げながら、歩みを少しだけ速めた。
旅は続いていく。
断界同盟を追うという目標も、今でははっきりと自分の中にある。
ただ世界を見て回るだけではなく、歪みの正体をたどる。
それが、今の自分の進む道だ。
道の脇には小さな川が流れていた。
水面に映る空はまだ暗いが、少しずつ色を変えている。
その流れを眺めながら、彩葉はふと思う。
(ここまで来たんだなぁ……)
日本を出る前には、ここまで遠くへ来るなんて想像もしていなかった。
でも今は、こうしてひとりで海を越え、森を越え、国を越え続けている。
最初の不安は少しずつ薄れ、代わりに“進むしかない”という感覚が強くなっていた。
やがて、空がほんのりと明るくなってきた。
朝の気配だ。
彩葉はその場で立ち止まり、ゆっくりと伸びをする。
「ふぁ……」
「少し眠いかも」
それでも足は止めない。
目の前には山の稜線が見え、道の先はさらに細くなっている。
地図によれば、国境まではまだ少しある。
「もうすぐ……かな」
そのころには、空は完全に朝色へと変わっていた。
薄い雲が流れ、鳥の声が増え始める。
道沿いの木々も、朝の光を受けてしっとりと輝き出した。
彩葉はふと、立ち止まって深呼吸をする。
湿った土の匂い。
少し冷たい風。
遠くから聞こえる人々の生活の音。
すべてが、次の国へ向かう途中の景色だった。
「中国かぁ……」
彩葉は小さく笑った。
「どんな守護者さんがいるんだろう」
「どんな景色があるんだろう」
「どんなことが待ってるんだろう」
想像すればするほど、胸の奥が少しだけ熱くなる。
ベトナムで出会ったハスのことも、ちゃんと心に残っている。
自分のことを責め続けなくていい。
ひとりで背負わなくていい。
その言葉は、今もまだ胸の奥で静かに響いていた。
彩葉は再び歩き出す。
そして、山の向こうに見え始めた高い柵と、検問所らしき建物の影に視線を向けた。
国境は、もうすぐそこだった。
ここから先が中国。
だが、まだ越えはしない。
今はただ、境界の手前で立ち止まり、深く息を整えるだけだった。
風が変わる。
空気も変わる。
そのわずかな違いを感じながら、彩葉は国境の手前に立ち、これから始まる中国の旅に思いを馳せた。
まだ、踏み込まない。
けれど、すぐそこにある。
その先へ進む準備は、もうできていた。
ここまで読んでくれてありがとうございます。
次回もお楽しみに




