第百四十九話 霧の森を離れて中国へ
ベトナムのジャングルに、ようやく穏やかな風が戻っていた。
先ほどまで森を覆っていた濁った気配は消え、木々の隙間から差し込む光が、濡れた葉の上で細かく揺れている。
彩葉は肩で息をしながら、ゆっくりと周囲を見回した。
「終わった……」
小さく呟いた声は、森の静けさに溶けていく。
ハスは片目に眼帯をしたまま、折れた枝の向こうを見つめていたが、やがて静かに息を吐いた。
「……ええ。終わりました。」
その声には、戦いが終わった安堵だけでなく、長く抱えていたものが少しだけ軽くなったような響きがあった。
彩葉はハスの横顔を見ながら、少し迷ってから口を開く。
「ハスさん……」
「なんですか」
「一人で抱え込まなくていいって、私は思います」
ハスはすぐには答えなかった。
森を渡る風だけが、茶色い蔓草をそっと揺らす。
「……そう簡単には、いきません」
「でも」
彩葉は一歩近づく。
「でも、ひとりで全部背負う必要はないよ」
「私も、今日そう思いました」
「あなたはずっと、この森で戦ってたんでしょ」
「だったら、少しぐらい頼ってもいいと思う」
ハスはほんの少しだけ視線を落とす。
その沈黙は、拒絶ではなかった。
彩葉はそれを感じて、静かに笑った。
「……ありがとうございます」
「え?」
「来てくれて」
その言葉は、とても小さかった。
けれど、確かに彩葉の胸に届いた。
◇
森を抜けると、人里の明るい声が聞こえてくる。
市場では果物が並び、炊事の煙がゆっくりと空へのぼっていた。
彩葉は少しだけ安心して、その景色を見つめる。
「こっちは、もう大丈夫そうですね」
ハスは頷いた。
「ええ。しばらくは落ち着くと思います」
だがその声には、完全には油断していない慎重さがあった。
彩葉もそれを感じ取る。
「それでも、また何かあったら……」
「その時は呼んでください。」
ハスは少しだけ驚いたように目を見開く。
「……あなたは、そんなに簡単に引き返してこられるのですか」
「はい!」
彩葉はまっすぐ頷く。
「旅の途中ですから!」
その返事に、ハスはほんのわずかに口元を和らげた。
「……そうですか」
そのとき、村の方から女性が小さく手を振ってきた。
「おかえり、あの子はもう大丈夫かい?」
ハスが軽く頷く。
「ええ。もう大丈夫です。」
女性はほっとしたように息を吐いたあと、彩葉へ視線を向けた。
「ありがとうね、旅の子」
彩葉は少し照れながら頭を下げる。
「いえ、私は少し手伝っただけで……」
「それでもだよ。」
女性は優しく笑った。
市場のざわめき、子どもの笑い声、料理の香り。
戦いの後の生活は、何事もなかったかのように続いている。
彩葉はその光景に胸を打たれた。
◇
その日の夕方。
彩葉は村の外れで、自分の荷物を整理していた。
バッグの中には、各国で手に入れた小さなお守りや、もらった果物、地図や紙片が入っている。
「次は……中国か」
電子地図を開きながら呟く。
ベトナムから北へ向かえば、いくつかのルートがある。
だが、海を使うよりも陸路の方が安全そうだと、これまでの経験が教えてくれていた。
そこへハスが近づいてくる。
「準備ですか。」
「はい。」
「次の目的地、中国に向けてです。」
ハスは少しだけ考え、静かに頷いた。
「なら、早めの出発がいいでしょう。」
「気候が変わる前に。」
「はい!」
彩葉は地図を畳む。
「……あの、ハスさん」
「なんですか」
「中国って、どんなところでしょうね」
ハスはすぐには答えなかったが、少しだけ空を見上げる。
「広いです。」
「人も多い。」
「そして、強い気配がある。」
「強い気配?」
「ええ。守護者も、妖も、霊も、たくさんいるはずです。」
彩葉の胸が少し高鳴る。
「すごい……」
「きっと、また新しい出会いがありますね。」
「そうでしょう。」
ハスは静かに続ける。
「ですが、気をつけてください。」
「中国へ行くなら、いろいろな道があります。」
「無理をせず、迷わず。」
「はい。」
彩葉は真剣な顔で頷いた。
そして、少しだけ笑う。
「ベトナムでも、たくさん教えてもらいました。」
「次の国も、きっと学ぶことがいっぱいありますね。」
「ええ。」
ハスはそう答え、少しだけ間を置く。
「……彩葉。」
「はい?」
「あなたが来てくれたこと、感謝しています。」
「ここまで、一人でいるつもりでしたから。」
彩葉は少しだけ目を丸くする。
「でも、もう一人じゃないですよ。」
その言葉に、ハスは何も言わず、小さく目を伏せた。
それは、彼女なりの受け止め方だったのかもしれない。
◇
夜になる前、彩葉は村の入口へと向かった。
森の中を抜ける風が、少しだけ冷たくなっている。
ハスはその見送りに来ていた。
「行きます。」
「ええ。」
「また、いつか。」
「はい!」
彩葉は笑顔で手を振る。
「ありがとうございました!」
ハスは短く頷いた。
「気をつけて。」
彩葉はその言葉を胸に刻み、村を後にする。
向かう先は、中国。
まだ会ったことのない守護者。
まだ知らない土地。
そして、断界同盟を追うための新しい道。
ベトナムの森が背後に遠ざかっていく。
けれど、そこで得た言葉と記憶は、彩葉の中にしっかり残っていた。
彼女は小さく拳を握りしめる。
「行こう……」
次の国へ。
次の出会いへ。
バッグの守護者・彩葉は、夜へ向かう道を静かに進み始めた。




