第百四十六話 緑の奥で待つもの
森の空気が、ゆっくりと重くなっていく。
さっきまで遠くで鳴いていた鳥の声は途切れ、代わりに葉の擦れる音がやけに大きく響いた。
彩葉はハスの横顔を見ながら、無言でうなずく。
「……行きましょう」
ハスは短く言うと、茶色い蔓草をまとったまま、森の奥へ足を踏み出した。
その背中には迷いがない。けれど、どこか張りつめたものがあった。
彩葉もそれを感じ取り、すぐに後を追う。
湿った土を踏むたび、靴の裏に少しだけ重さが残る。
木々は高く、枝は複雑に絡み合っていて、光はほとんど地面まで届かない。
それでも、今ははっきりと分かる。
前方に、何かがいる。
「……こっちですか?」
彩葉が小さく尋ねると、ハスは歩きながら頷いた。
「ええ」
「さっきの気配は、あちらからでした」
「……やっぱり、また想霊ですか?」
「たぶん」
その返事は短いが、確かな警戒があった。
森の奥へ進むにつれて、空気はさらに冷たくなる。
昼のはずなのに、薄暗さが深まっていくようだった。
彩葉は自分の胸の前で手を握る。
怖くないわけじゃない。
でも、ここで引くつもりもなかった。
「ハスさん」
「なんですか」
「もし……その、またたくさん出てきたら、一人で全部やろうとしないでください」
ハスは足を止めずに答えた。
「……言われなくても」
だが、その声は先ほどより少しだけ柔らかかった。
彩葉はそれだけで少し安心する。
さらに奥へ進むと、地面の様子が変わった。
草が倒れ、ところどころに黒く焼けた跡がある。
「戦った跡……」
「ええ」
ハスの声が低くなる。
「ここで、何度かぶつかりました」
「まだ残っているんですね」
「完全には消えません」
その言葉に、彩葉は改めて森を見回した。
ただの戦場じゃない。
そこには、誰にも届かなかった祈りや、失われたものの気配が染みついているように思えた。
ふいに、ハスが立ち止まった。
「……ここです」
彩葉も足を止める。
目の前は少し開けた場所だった。
大きな木の根元に、えぐれた地面。折れた枝。歪んだ空気。
そして、その中心にあるもの。
濁った影のような存在が、ゆっくりと揺れていた。
はっきりした形ではない。
けれど、人の泣き声にも似たかすかな音を発している。
彩葉の背筋に、ぞくりとした感覚が走った。
「……これが」
ハスは目を細める。
「近いです」
その声は、いつもの冷たさよりも少しだけ重かった。
影はまだこちらに気づいていないのか、あるいはもう気づいているのか、ゆらゆらと揺れている。
彩葉は息をのんだまま、その存在を見つめた。
あれは単なる怪異ではない気がした。
悲しみと怨念と、何か別の感情が混ざり合っているような、ひどく複雑な気配。
ハスがゆっくりと前に出る。
「……来ます」
彩葉もすぐ隣へ並んだ。
風が止まる。
森の静寂が、いっそう濃くなる。
そして――
その影が、ゆっくりとこちらへ顔を向けた。
彩葉は、息を呑んだまま、その存在と初めて真正面から対峙することになった。
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