第百四十五話 緑の森で交わす小さな言葉
ベトナムのジャングルは、相変わらず深い緑に包まれていた。
湿った土の匂い。葉の擦れる音。遠くで鳴く鳥の声。
先ほどまでの緊張が少しだけ落ち着き、彩葉はハスの背中を見ながら森の中に立っていた。
ハスはさっきまでと変わらず、片目に眼帯をしたまま、静かに周囲を見張っている。
それでも今は、戦いの構えというより、少しだけ力を抜いた姿に見えた。
「……あの」
彩葉が声をかけると、ハスはゆっくり振り向いた。
「なんですか」
「えっと……ここ、いつもこんなに大変なんですか?」
ハスはしばらく無言だったが、やがて小さく息を吐いた。
「いいえ」
「毎日ではありません」
「でも、増えるときは一気に増えます」
「……そうなんですね」
「この森は、もともと静かな場所でした」
「人も動物も、無理に騒がずに暮らしていた」
彩葉は少しだけ頷く。
「でも今は、ああいう想霊がいる」
「ええ」
「私の見ていないところでね」
風が吹き、茶色い蔓草がハスの肩で揺れた。
彩葉はその様子を見ながら、ふと思ったことを口にする。
「その蔓、すごく似合ってます」
ハスは一瞬だけ目を瞬かせた。
「……そうですか」
「はい!」
「森の色みたいで、すてきです」
「……ありがとうございます」
ほんの少しだけ、ハスの声がやわらかくなる。
彩葉はそれがうれしくて、自然と笑顔になった。
「お腹、空いてませんか?」
「え?」
「さっき人里で、果物を少しもらったんです」
そう言って、彩葉はバッグの中から小さな果実を取り出す。
「食べます?」
ハスは少しだけ驚いたようにそれを見たあと、静かに首を横に振った。
「今は必要ありません」
「そうですか……」
「でも、気持ちは受け取ります」
「いえいえ、どういたしまして!」
彩葉は果実を自分でかじる。
「ん~、おいしい」
その素直な反応を見て、ハスはわずかに目を細めた。
「……あなたは、本当に普通ですね」
「え?」
「守護者なのに、普通に食べて、普通に驚いて、普通に話す」
彩葉は少しだけ照れた。
「そうでしょうか」
「はい」
「だからこそ、少し不思議です」
森の奥で小さな虫の声がした。
空気はまだ重いが、会話の温度は少しずつ上がっている。
彩葉はハスを見上げた。
「ハスさんは、いつからここにいるんですか?」
「……ずっとではありません」
「でも、しばらくは」
「それって、あの霊たちがいるからですか?」
「ええ」
「彼らは、ただ暴れているわけではない」
「……?」
「私にはそう見えます」
ハスは少しだけ視線を落とした。
「うまく言えませんが、苦しんでいるように見えることがある」
彩葉は胸がきゅっとなるのを感じた。
あの奇形な霊たちは、ただの怪異ではなく、失われた命の影響を受けた存在だった。
そのことを思うと、ハスが一人で向かい合っていることの重さが改めて胸に落ちてくる。
「……ハスさん」
「なんですか」
「……無理しすぎないでください」
ハスは少しだけ黙る。
「私は、平気です」
「本当に?」
「……少なくとも、やるべきことはあります」
「それは分かるけど」
彩葉は少しだけ言葉を探した。
「誰かに頼るのも、悪いことじゃないと思います」
「私は……」
ハスはそこで言葉を止めた。
遠くで木の枝が揺れる音がした。
ハスの表情が、ほんの少しだけ変わる。
何かを感じたのだろう。
彩葉もその変化に気づき、背筋を伸ばす。
「どうかしましたか?」
「……いえ」
だがその返事は、明らかに先ほどと違った。
「少し、空気が変わった」
「え?」
ハスは森の奥を見る。
彩葉もつられて視線を向けた。
木々の影が、妙に濃く見える。
風が止まる。
鳥の声も途切れた。
静かすぎる。
嫌な静寂だった。
「……ハスさん」
「下がってください」
「えっ」
ハスが低く言った瞬間、森の奥で何かが揺れた。
最初は木の影かと思った。
けれど、違う。
黒い気配が、地面の根の間からゆっくりとにじみ出てくる。
空気がさらに重くなる。
「……また、ですか」
ハスの声が冷たくなる。
彩葉はハスの隣に立ち、すぐに拳を握った。
「行きましょう」
ハスは一瞬だけ彩葉を見る。
そして、静かに頷いた。
緑の森はまだ終わっていない。
何かが、こちらへ近づいていた。
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