第百四十四話 緑の奥で交わす言葉
ベトナムのジャングルは、先ほど訪れた人里の穏やかな空気が嘘のように深く、濃く、そして息苦しいほどの緑に包まれていた。
木々は高く、枝葉は複雑に絡み合い、昼間だというのに薄暗い。
湿った土の匂いと、濃い草木の香りが鼻をくすぐる。
彩葉は呼吸を整えながら、ジャングルの奥へと分け入っていた。
「もう一度、会わないと……」
小さく呟く。
森の奥にいるはずの、あの守護者に。
森の中を進むたびに、草や蔓が足に絡みつき、枝葉が頬をかすめる。
何度も立ち止まりそうになる。
それでも彩葉は足を止めなかった。
「どこ!? どこにいるの!」
声を張り上げるが、返ってくるのは鳥の鳴き声と、遠くで揺れる葉音だけだった。
道らしい道はない。
ただ、誰かが戦った形跡だけが、ところどころに残っている。
折れた枝。
焼けた草。
えぐれた地面。
そして、薄く漂う不穏な気配。
彩葉は息を切らしながらも、さらに奥へ進んだ。
草木が進むのを妨げる。
枝葉は容赦なく肌を切り裂く。
だが、それでも前に進むしかなかった。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
額に汗がにじむ。
呼吸は苦しい。
けれど、胸の奥にははっきりとした確信があった。
ここだ。
あの少女は、まだここで戦っている。
「……あっ、この気配は!」
彩葉が顔を上げる。
見つけた。
途端、周囲の空気が少しだけ明るくなる。
木々の隙間から差し込む光ではない。
もっとはっきりした、強い気配。
その中心に向かって、彩葉は駆け出した。
そして、視界が開ける。
そこには、先ほど人里で聞いた名を持つ少女が立っていた。
茶色い蔓草のようなものを身体に巻きつけ、片目に眼帯をした守護者――ハス。
その前方には、歪んだ形の奇形な想霊が数体、まだ蠢いていた。
彩葉が息を呑むより早く、ハスが前に出る。
「エネルギーバースト!」
緑色の閃光が走った。
放たれた光はまっすぐに想霊へ突き刺さり、次の瞬間には霧のように吹き飛ばしていた。
「ァァァァァ……」
想霊の断末魔が森に溶ける。
その光景を見届けたハスは、ようやく彩葉へ視線を向けた。
鋭い、けれどどこか疲れた瞳だった。
「ふぅ……なぜ来たのです?」
彩葉は一歩前へ出る。
「伝えたいことがあるの!」
ハスは怪訝そうに眉をひそめる。
「……私に、ですか」
「うん!」
彩葉は迷わなかった。
「さっき、村の人に聞いたの」
「あなたは、あの戦争での出来事を自分の罪だと思ってるって」
ハスの瞳が、わずかに揺れる。
しかし、すぐに表情を消した。
「……そうですか」
「だから何です」
冷たい声だった。
それでも、彩葉は引かなかった。
「だから、ひとりで全部背負う必要なんてないって言いたいの!」
ハスは何も言わない。
彩葉は続ける。
「あなたはずっと、一人でここで戦ってるんでしょ?」
「誰にも頼らずに、ずっと」
「でも、それは違うよ」
風が吹く。
木々の葉がざわめいた。
「守れなかったことを、ずっと悔やんでるのかもしれない」
「でも、それを全部あなたのせいにしちゃだめだよ」
ハスはじっと彩葉を見つめていた。
その眼差しには、怒りも否定もある。
けれど、その奥底にあるものは、もっと深く、もっと古い傷だった。
「……簡単に言いますね」
ハスの声は低い。
「私は、見てきました」
「失われたものを」
「守れなかったものを」
「壊れていく命を」
「それを見て、私だけが立ち止まるわけにはいかなかった」
彩葉は静かに聞く。
「だから、一人で背負うの?」
「ええ」
「それが、私の贖罪です」
その言葉は、強く決意したものだった。
けれど同時に、どこか壊れそうなほど脆かった。
彩葉は少しだけ唇を噛む。
それから、まっすぐにハスを見据えた。
「贖罪って、ひとりで背負うものじゃないと思う」
「……え?」
「守れなかったことを悔やむ気持ちは、きっと本物なんだと思う」
「でも、だからって、自分だけを罰し続けなくてもいい」
「あなたがずっと苦しんでるなら、それは“罰”じゃなくて“傷”だよ」
ハスの表情が、ほんの少しだけ揺らいだ。
彩葉は言葉を重ねる。
「傷は、ひとりで抱えたままだとずっと痛いまま」
「でも、誰かが一緒に持てば、少しは軽くなるかもしれない」
「私は……そう思う」
しばらく、森に沈黙が落ちた。
ハスは目を伏せたまま、何も言わない。
だが、その手はわずかに震えていた。
彩葉はさらに一歩だけ近づく。
「あなたが守れなかったもののために、今も戦ってるのはわかる」
「でも、だからこそ、もう自分ひとりを責め続けないで」
「一緒に背負わせて、とは言わない」
「でも、ひとりで抱え込まなくていい」
「そんなふうに思ってくれたら……うれしい」
ハスはゆっくりと顔を上げた。
眼帯の奥にある視線は、先ほどまでよりも少しだけ揺れていた。
「……あなたは」
「本当に、厄介な人ですね」
彩葉は少しだけ笑う。
「よく言われる」
その返答に、ハスの口元がほんのわずかに動いた。
笑ったわけではない。
けれど、初めてほんの少しだけ、人間らしい温度が宿ったように見えた。
森の奥では、まだ小さな想霊の気配が残っている。
だが、今この場にある空気は、少しだけ変わっていた。
彩葉はそれを感じながら、もう一度言う。
「あなたは、ひとりじゃないよ」
ハスは答えなかった。
けれど、その沈黙はさっきまでとは違っていた。
やがて彼女は、静かに視線を森の奥へ戻す。
「……もう少しだけ、ここで戦います」
彩葉は頷いた。
「うん」
「だったら、私も見てる」
ハスは小さく息を吐いた。
そして、再び前を向く。
緑の奥で、風が鳴る。
ベトナムの森はまだ静かではなかったが、彩葉の言葉は確かにそこに残っていた。
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