第百四十二話 霊深き森の贖い
ベトナムのジャングルは、見上げるほど高い木々と、絡み合う蔓、湿った土の匂いで満ちていた。
彩葉は薄暗い木立の間を歩きながら、まだ先ほどの音の余韻を追っていた。
「ぉ~............自然がたくさんですね......」
緑の葉が幾重にも重なり、昼だというのに森の中は少し薄暗い。
しかし、その暗さは怖さだけではなく、むしろ深い命の気配を感じさせた。
どこからか鳥の声が響く。
水の流れる音も聞こえる。
けれど、その静かな森の底で、さっきまで確かに戦いの音がしていた。
彩葉は足を止めた。
「だれかが戦っている音が聞こえた」
その直感に導かれるように、さらに奥へ進む。
木々の隙間を抜けると、急に視界が開けた。
そこは少しだけ地面がえぐられたような場所で、周囲の草は折れ、地面には複雑な爪痕が残っていた。
「なんでしょう、守護者でしょうか?行ってみましょう」
彩葉が一歩踏み出した、そのときだった。
「……あれ?音が……」
思わず立ち止まる。
次の瞬間。
「下がれ!」
「え!?」
鋭い声と同時に、何かが横を掠めた。
強い衝撃風が頬を打ち、彩葉は反射的にしゃがみ込む。
その目の前を、不思議な形の奇形な想霊のようなものが飛び抜けていった。
「ァァァァァァァァ......」
人とも獣ともつかない歪んだ気配。
その正面に、ひとりの少女が立っていた。
茶色い蔓草が身体に巻き付くように伸びており、片目には黒い眼帯。
その姿は、ジャングルに溶け込むように自然でありながら、どこか神秘的だった。
「ハァッ!!」
少女が鋭く手を振るう。
見えない刃のような力が放たれた瞬間、奇形の想霊が悲鳴を上げて霧のように散った。
「ァァァァァァァァ!?!?」
彩葉は言葉を失って、その一部始終を見つめていた。
「......」
少女は静かにこちらを振り向く。
「なぜここにいる?」
彩葉は慌てて立ち上がる。
「え?音が聞こえて、あの、守護者ですよね?私、バッグの守護者『彩葉』です」
茶色い蔓草の巻き付いた少女は、少しの間、彩葉を見つめていた。
「..................そう、なら、ここははなれたほうがいい」
「え?」
彩葉は思わず問い返す。
少女は視線を森の奥へ向けた。
「ここには霊がいるから、ここの霊は厄介、だから......」
その言葉には説明というより、諦めのような響きがあった。
「だったら、一緒に」
彩葉がそう言いかけると、少女はすぐに首を横に振る。
「必要ない」
「......」
彩葉は戸惑った。
戦っているのに、一緒に戦う必要がないという。
それが少し引っかかる。
少女は淡々と続ける。
「だってこれは、この仕事は“守れなかった私への贖罪”だから......向こうに行けば人のいるとこに出る」
その言葉が落ちた瞬間、森の空気が少しだけ重くなった気がした。
彩葉は何も言えなくなる。
少女の声には、強さよりも深い傷のようなものが滲んでいた。
何かを守れなかったこと。
それを今も背負い続けていること。
だからこそ、誰かを巻き込みたくないのだろうか。
彩葉は少しだけ胸が痛んだ。
「............わかりました............」
すぐには納得しきれなかった。
それでも、今はその言葉を受け取るしかなかった。
彩葉はふにおちなさを残したまま、静かにその場を離れる。
背後で少女はしばらく黙っていた。
「..................そう、それでいい......」
森の奥へ向かうその声は、誰に向けたものでもなかった。
◇
やがて彩葉は、木々の密度が少し薄くなった先へ出た。
そこには小さな道があり、さらに進むと人里の気配が強くなっていく。
「ベトナム 人里」
ようやくたどり着いた場所で、彩葉は立ち止まった。
「......なんだったんでしょう?異変とかだったら、一緒に......」
振り返ると、もう森の奥は木々に遮られて見えなかった。
あの少女の姿も、もうどこにもない。
ただ、湿った風だけが頬を撫でていく。
彩葉はしばらくその場で考え込んだ。
あの少女は、いったい何と戦っていたのだろう。
守れなかった、と言った。
贖罪、とも。
ならば本当に、ただの異変ではなかったのかもしれない。
あるいは、この森に棲む“何か”をずっと一人で追い続けているのか。
でも、今はまだ分からない。
彩葉は小さく息を吐いた。
「......また会えるかな」
その呟きは、ベトナムの人里へ向かう風にそっと溶けていった。
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