第百四十一話 緑と水の国を歩いて
海を越えた先に広がっていたのは、ベトナムの明るい朝だった。
空は高く、雲は薄く流れ、街にはバイクの音と人々の活気が満ちている。
彩葉は海面を歩く感触から、ようやく陸へと足を下ろした。
「……着いた」
息を吐くと、潮の匂いに混じって、雨上がりの土と植物の香りがほんのりと鼻をくすぐる。
マレーシアやタイとも違う、やわらかくて軽やかな空気だった。
街の並木は背が高く、道の両側には細長い建物が続いている。色は淡く、ところどころに花が飾られていて、どこか穏やかな印象を与えていた。
「ここがベトナム……」
彩葉は目を輝かせながら周囲を見回した。
海を渡る前は、ただ“次の国”という認識だったのに、こうして立ってみると、その土地ごとの空気がはっきりと違って感じられる。
通りを歩く人々は忙しそうなのに、笑顔を忘れていない。
屋台からは、温かなスープの匂いが立ちのぼり、果物の並ぶ市場では鮮やかな色彩が目を引く。
「すごいな……」
彩葉は思わず呟いた。
この国もまた、守られてきた場所なのだろう。
そしてどこかに、ここを支える守護者がいる。
でも、今はまだ会わない。
その前に、まずはこの国を見て回ることにした。
彩葉は電子地図をひらく。
「えっと……海岸から少し行けば、市場があるみたい」
地図の示す通りに歩き出す。
やがて道は賑やかな市場へとつながっていった。
そこにはたくさんの人が集まっていた。
新鮮な野菜。
山のように積まれた果物。
揚げ物を作る音。
布を売る声。
全てが生き生きとしている。
「わぁ……!」
彩葉の目が輝く。
「美味しそうなものがいっぱい」
市場を見て回るだけでも楽しい。
見たことのない果物を手に取っては、匂いをかぎ、色を確かめる。
小さな子どもがこちらを見て、少しだけ笑った。
彩葉も小さく手を振る。
すると、子どもは嬉しそうに母親の元へ走っていった。
「ふふっ」
自然と笑みがこぼれる。
少し歩くと、道の先に川が見えた。
川は街の中を静かに流れていて、その上を小舟がすべるように進んでいる。
水面には朝の光が反射し、きらきらと揺れていた。
「綺麗……」
思わず足を止める。
川沿いでは人々が洗濯をしていたり、小さな舟で荷物を運んでいたりする。
暮らしの一部として水が溶け込んでいた。
旅をしていると、そうした“生活の風景”に心を動かされる。
ただ美しいだけではなく、その土地に住む人々の息づかいが見えるからだ。
彩葉は橋の上で立ち止まり、川を見下ろした。
「ここも、ちゃんと守られてるんだなぁ」
誰に言うでもなく呟く。
やがて、風が川面を走り抜けた。
その風には、少し湿った土の香りが混じっている。
彩葉は街を抜け、少し郊外の方へ歩いていった。
そこには木々が増え、空気も少しだけ静かになる。
小鳥の声。
木の葉の擦れる音。
そして時折聞こえる、遠くの街のざわめき。
都市と自然の境目が、ゆっくりと曖昧になっていくようだった。
「いいところだな……」
彩葉は木陰に立ち、深く息を吸った。
ここまで来ると、これまでの国の記憶が少しずつ重なってくる。
屋久島の森。
フィリピンの海。
インドネシアの密林。
マレーシアの市場。
タイの街並み。
それぞれが違うのに、どこか一つの旅として繋がっている。
その中で出会った守護者たちも、みなそれぞれの国を大切にしていた。
彩葉は立ち止まったまま、少しだけ考える。
「……ここの守護者さん、どんな人なんだろう」
まだ会っていない。
でも、きっとここにも、守るべきものを抱えている人がいる。
そんな予感がしていた。
夕方が近づくころ、彩葉は再び街へ戻った。
市場は昼よりも少し静かになり、それでもなお活気は失われていない。
その中を歩きながら、彩葉はゆっくりと次の手がかりを探す。
守護者の気配を感じるかもしれない。
でも、急がなくていい。
この国の空気を感じながら、少しずつ進めばいい。
そんなふうに思えるのは、これまでの旅で少しだけ自信がついたからだろう。
夜になれば、また違う顔を見せるはずの街。
昼の喧騒が静まり、川の水面に灯りが映るころ。
彩葉はベトナムという国の中を、守護者を探しながら、ゆっくりと歩き続けるのだった。
ここまで読んでくれてありがとうございます。
次回もお楽しみに




