第百三十七話 静かな夜と夜叉の名乗り
タイの夜は、昼間の賑わいが嘘のように穏やかだった。
先ほどまで響いていたサウン・ガウの美しい音色は余韻となって街に残り、屋台の店主たちは店じまいの準備を始め、人々は家路へと急いでいる。
彩葉は夜空を見上げ、小さく息を吐いた。
「……本当に、きれいな音でした。」
その言葉に、サウン・ガウを抱えた少女が照れくさそうに笑う。
「ありがとう~。そう言ってもらえると嬉しいな~。」
隣ではラーチャプルックが両腕を頭の後ろで組みながら、大きく伸びをした。
「今日は色々あったね~。」
「はい。」
彩葉は苦笑する。
「旅に出てから、毎日のように戦ってる気がします。」
「それだけ断界同盟が活発なんだろうね。」
ラーチャプルックの表情から笑みが少しだけ消えた。
「昔はこんなこと、あんまりなかったんだけど。」
ユミも静かに頷く。
「近年は異常だ。想霊の動きも、妖怪たちの暴走も、誰かが裏で糸を引いているように見える。」
彩葉は胸元のお守りへそっと触れた。
鹿児島でもらった、大切なお守り。
泉から託されたものだ。
「みんな……本当に色んなものを守っているんですね。」
「当然さ。」
ユミは夜空を見上げる。
「守護者とは、その土地、その文化、その人々を守るような存在だからな。」
「でもさ~。」
パダウが笑いながら口を挟んだ。
「それだけじゃ疲れちゃうから、遊ぶときは遊ぶんだよ~。」
「そうそう。」
ラーチャプルックも笑う。
「あたしなんか、お祭り大好きだし。」
「え?」
「タイってお祭りいっぱいあるんだよ♪」
彩葉は興味津々に身を乗り出した。
「どんなお祭りですか?」
「一番有名なのは水を掛け合うお祭りかな。」
「水を?」
「そうそう♪」
ラーチャプルックは身振り手振りを交えて説明する。
「みんなで水鉄砲持って走り回るんだよ!」
「楽しそう!」
「びしょ濡れになるけどね。」
「それでも楽しそうです!」
彩葉の笑顔に、その場の空気も自然と柔らかくなる。
パダウはそんな彩葉を見つめながら優しく微笑んだ。
「彩葉ちゃんって、本当に素直だねぇ。」
「そうでしょうか?」
「うん。」
「普通なら旅を続けてたら疲れたり、嫌になったりする人もいる。」
ラーチャプルックも頷く。
「でも彩葉ちゃんは、どこの国に行っても最初に『きれい』とか『すごい』って言う。」
「そうかな……。」
「そうだよ。」
パダウはにっこり笑う。
「そういう人だから、みんな案内したくなるんじゃないかな。」
彩葉は少し照れたように頬をかいた。
「ありがとうございます。」
少し離れた場所では屋台から香辛料の香りが漂ってくる。
甘い果物の香り。
焼き料理の匂い。
夜風に乗って様々な香りが流れてくる。
「そういえば。」
彩葉はふと思い出したように尋ねる。
「みなさんって、普段は何をしているんですか?」
「私は弓道場。」
ユミが即答する。
「人間社会に溶け込みながら技を磨いている。」
「私は演奏だよ~。」
パダウはサウン・ガウを軽く鳴らす。
「音楽は心を落ち着かせるからね~。」
ラーチャプルックは少し考えてから笑った。
「あたしは町を歩いてる。」
「歩いてる?」
「うん。」
「困ってる人がいたら助けたり。」
「子どもたちと遊んだり。」
「市場を見たり。」
「食べ歩きしたり。」
「案外、それだけで毎日楽しいよ。」
彩葉は何度も頷いた。
「なんだか、すてきです。」
「彩葉ちゃんもそうなるよ。」
ラーチャプルックが優しく笑う。
「もっと旅を続けたら、きっと。」
「はい!」
その返事は迷いがなかった。
旅を始めた頃よりも。
たくさんの守護者と出会い。
たくさんの景色を見て。
たくさんの想いを受け取ってきた。
彩葉自身も少しずつ成長している。
そんな空気が自然と伝わっていた。
夜風が吹く。
木々が揺れる。
その音に混じって――
ザッ。
誰かが草を踏む音がした。
全員の表情が変わる。
ラーチャプルックがクラビー・クラボーンへ手を伸ばす。
ユミは無言で弓を構えた。
パダウもサウン・ガウを抱え直す。
彩葉も収納空間を展開しながら前を見据えた。
暗闇の奥。
木々の隙間から、一つの人影がゆっくりと姿を現す。
黒い外套。
異様な殺気。
人とは思えない赤黒い瞳。
低く笑う声だけが静かな森へ響いた。
「くくく……ようやく見つけた。」
彩葉は息を呑む。
「あなたは……!」
人影はゆっくりと両腕を広げ、不気味な笑みを浮かべた。
「俺は『ラクシャーサ』――断界同盟幹部『天魔』様の忠実なる夜叉なり!!」
ここまで読んでくれてありがとうございます。
次回もお楽しみに




