第百三十六話 夜空に響く弦の調べ
「ど~しよ~かな、これ......」
ラーチャプルックが小さく肩をすくめながら周囲を見渡す。
黒い想霊たちはなおも低いうなり声を上げながら、四方八方からじりじりと距離を詰めていた。
「ァァァァァァァァ......」
街を包む重苦しい空気。
屋台の灯りはまだ消えていない。
人々も異変にはまだ気付いていないようだった。
だが、その静かな日常のすぐ隣まで、異形たちは迫っている。
彩葉は収納空間を展開しながら息を整えた。
「この数......どうすれば......」
その時だった。
夜空を鋭く切り裂く音が響く。
「下がれ!
星張り(ほしばり)!」
「ッ............風切音?」
ラーチャプルックが反射的に振り向く。
次の瞬間。
シュンッ!
シュンシュンシュンシュンッ!!
幾筋もの光が夜空を走った。
星屑のような光の矢が弧を描き、想霊の群れへ降り注ぐ。
「ァァァァァァァァ!?!?」
一瞬だった。
数十体はいたはずの想霊たちが、光に貫かれ、一斉に霧となって消滅していく。
「え......」
彩葉は思わず声を漏らした。
「あの数を一瞬で......」
風が止む。
舞い上がっていた黒い霧もゆっくりと消え、夜空には静寂だけが戻ってきた。
そこへ、一人の少女が静かに歩いてくる。
白を基調とした弓道服。
その背には一本の長弓。
凛とした空気をまとい、姿勢は少しも乱れていない。
「すまない、怪我はないか?我々が狙っていたやつらが逃げ出してな。」
その横から、どこかのんびりとした声が響く。
「あれ?ラーチャプルックだ~。」
振り向くと、弓を思わせる優雅な形のハープ――サウン・ガウを抱えた少女が笑顔で手を振っていた。
「あ、パダウ?......この人は。」
「ん?あぁ、弓道の守護者『ユミ』ちゃんだよ。」
紹介されると、弓道服の少女は軽く一礼した。
「ユミと言う。先程はすまなかった。」
ラーチャプルックは苦笑しながら首を振る。
「いや、別に良いよ。」
彩葉は目を輝かせて二人を見つめる。
「かっこいいですね! あ、私はバッグの守護者『彩葉』です。」
ユミは彩葉を見つめ、小さく頷いた。
「君はもしかして、日本生まれの守護者か?」
「はい! もしかしてユミさんも?」
「あぁ、そうだ。東南アジアで断界同盟が暗躍していると聞いて、とある学校の弓道場から飛び出してきた。」
「そうなんですね。」
するとハープを抱えた少女が元気よく片手を挙げた。
「へぇ~彩葉ちゃんか~。私はミャンマーの守護者『パダウ』だよ~。よろしくね~。」
「はい!」
彩葉も笑顔で頭を下げる。
ラーチャプルックは腕を組みながら二人へ問い掛けた。
「二人はあれを追っていたの?」
「あぁ。」
ユミが静かに答える。
「一網打尽にしようとしたら逃げられてな。」
「それでここに流れちゃったってわけ。」
パダウは悪びれもなく笑った。
「別にいいけど、あんまり人間のいる近くで暴れないでよ。」
ラーチャプルックが苦笑すると、パダウは「えへへ~」と頭をかく。
「ごめんごめん~。」
ユミも申し訳なさそうに頭を下げた。
「以後気を付けよう。」
街の空気は少しずつ穏やかさを取り戻していく。
屋台の人々は何事もなかったように笑い、観光客たちも再び歩き始める。
彩葉はそんな光景を見て、ほっと息をついた。
「みんな強いんですね。」
「いや。」
ユミは首を横に振る。
「私は弓しか取り柄がない。」
「そんなことないよ~。」
パダウが笑いながら肩を叩く。
「ユミちゃんの矢はすっごく速いもん。」
「そうか?」
「そうだよ~。」
そのやり取りに彩葉も思わず笑みを浮かべる。
ラーチャプルックも肩の力を抜いた。
「なんだか平和だね。」
「そうだねぇ。」
パダウは夜空を見上げた。
「せっかくだし、この『サウン・ガウ』の演奏を見せるよ~。」
彩葉の目がぱっと輝く。
「演奏♪ 聞きたいです!」
「それじゃぁ一曲~。」
パダウはゆっくりと腰を下ろし、サウン・ガウを膝へ乗せた。
木目の美しい胴体。
黄金色の装飾。
湾曲した優雅な弓状の支柱。
月明かりを浴びたその楽器は、まるで芸術品そのものだった。
細い指がそっと弦へ触れる。
ポロン――。
最初の一音だけで、その場の空気が変わった。
柔らかく、温かく。
森を吹き抜ける風のような音色。
続いて幾重にも重なる旋律。
高く。
低く。
静かに。
夜空へ溶け込んでいく。
彩葉は目を閉じた。
海を渡ってきた旅。
鹿児島。
屋久島。
フィリピン。
インドネシア。
マレーシア。
そしてタイ。
出会ってきた多くの守護者たちの笑顔が、音色とともに心へ浮かんでくる。
「きれい......。」
思わず漏れたその一言に、パダウは嬉しそうに微笑む。
ユミは静かに耳を傾け、ラーチャプルックも武器を足元へ置いて夜風に身を任せていた。
街のざわめきすら、この演奏を邪魔しない。
まるでタイの夜そのものが、一つの音楽になったようだった。
やがて最後の一音が静かに消える。
誰もすぐには口を開かなかった。
それほどまでに美しい演奏だった。
彩葉はゆっくりと拍手を送る。
「すごかったです......!」
「ありがとう~。」
パダウは照れくさそうに笑った。
その頃――。
深い闇夜。
街の灯りも届かない森の奥。
黒い霧がゆっくりと渦を巻いていた。
その中心で、一人の影が拳を強く握り締める。
「くそが......また失敗だ......」
低く押し殺した声だけが、静かな闇の中へ重く響いた。
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