第百三十五話 揺らぐ街と無数の影
「楽しい観光はここまでかな。」
ラーチャプルックはゆっくりと立ち上がる。
彩葉もそれに続くように立ち上がった。
手の中の飲み物はまだ冷たいままだったが、その冷たさが妙に現実感を奪っていく。
街の笑い声はまだ遠くで続いている。
屋台の呼び声も、バイクの音も、日常の気配として確かに存在していた。
だがその“日常”の薄皮の下に、別のものがゆっくりと滲み出していた。
「……来てるね。」
ラーチャプルックの声が低くなる。
その視線の先、路地の影が不自然に揺れた。
空気が裂けるような音はしない。
ただ、そこに“穴”が開いたような違和感だけが広がる。
そして次の瞬間だった。
「アアアアアアアアアア……」
街の端から、何かが押し寄せてきた。
黒く濁った輪郭。
人の形をしているようで、していない。
目のようなものは空洞で、口のようなものだけが裂けている。
それが一体ではない。
二体でもない。
路地の奥から、次々と滲み出るように増えていく。
「想霊!?こんなにたくさん!」
彩葉は思わず一歩下がる。
その数は、視界の端まで埋め尽くすほどだった。
屋台の間に、建物の影に、街灯の下に。
まるで“街そのものが侵食されていく”ように、異形が増殖していく。
「ふふっ、面白くなってきたよ……」
ラーチャプルックは逆に笑っていた。
その笑みは恐怖ではない。
むしろ、戦いの火が灯ったような鋭さを含んでいる。
「ラーチャプルックさん?」
彩葉が呼ぶ。
だが返事より先に、彼女の手が動いた。
腰のあたりから引き抜かれる二本の武器。
剣と棒。
それはただの武器ではない。
空気の密度が変わるほどの圧を持っていた。
「クラビー・クラボーン行くよ!。」
その名を口にした瞬間、ラーチャプルックの雰囲気が一変する。
軽い笑顔は消え、戦場の顔になる。
「……あたしのクラビー・クラボーン捌きをくらえ!!」
踏み込みは一瞬だった。
地面を蹴った音すら遅れて聞こえる。
最初の一体に対して、剣が横に振るわれる。
しかし想霊は一体では終わらない。
切った瞬間、霧のように散りながらも別の場所で再構成される。
「……やっぱりね。」
ラーチャプルックの表情がわずかに歪む。
「普通のやり方じゃ切りきれないタイプか。」
背後から二体が飛びかかる。
彩葉が反応するより早く、棒が振り抜かれる。
衝撃。
空気ごと叩き潰すような一撃で、二体が弾ける。
だがすぐにまた再生する。
「再生が早い……!」
彩葉は周囲を見回す。
すでに想霊は十を超え、二十、三十と増え続けている。
街の境界線が消えていくようだった。
「数が多すぎる……!」
「そうだねぇ。」
ラーチャプルックは軽く息を吐く。
「これ、普通の観光客なら逃げてるレベルだよ。」
そう言いながらも、動きは止まらない。
剣が縦に振り下ろされる。
棒が横に弾く。
二つの動きが交差し、空間に円を描くように想霊を巻き込んでいく。
だが倒しても倒しても、減らない。
むしろ増えている。
「……どこから来てるんですか、これ!」
彩葉が叫ぶ。
ラーチャプルックは一瞬だけ視線を上げた。
「たぶんね。」
「この街そのものじゃない。」
「もっと奥……“感情の溜まり場”みたいなところ。」
その言葉と同時に、想霊の群れが一斉に動いた。
一方向へ。
彩葉とラーチャプルックを包囲するように。
「来るよ。」
ラーチャプルックが静かに言う。
次の瞬間、空気が爆ぜたように想霊が押し寄せた。
視界が黒く塗りつぶされる。
剣が閃く。
棒が走る。
しかしそれでも、数が減らない。
むしろ、戦いのたびに増幅していくような異常さだった。
「これ……キリがない……!」
彩葉の声がかすれる。
ラーチャプルックは一瞬だけ笑った。
「うん。」
「ちょっと厄介だね、これ。」
その言葉の裏には、まだ余裕があった。
しかしその余裕の奥で、何か別の危機を測っているような気配もあった。
想霊の群れは、なおも増え続ける。
街の明かりが、少しずつ暗くなっていく。
戦いはまだ、始まったばかりだった。
ここまで読んでくれてありがとうございます。
次回もお楽しみに




