第百三十四話 夕暮れの街と揺れる気配
「ここはね、昼と夜で雰囲気が全然違うんだよ。」
ラーチャプルックはそう言いながら、タイの街の大通りを軽く跳ねるように歩いていた。
彩葉はその横を歩きながら、周囲をきょろきょろと見回している。
屋台の煙、果物の甘い香り、遠くから聞こえる音楽。
どれもが日本とは違うリズムで流れていた。
「本当にいろんな匂いがしますね……。」
「でしょ~?」
「これが“生きてる街”って感じなんだよね。」
ラーチャプルックは楽しそうに笑う。
彩葉もつられて小さく笑った。
「こういう場所、ずっと見ていられます。」
「いいねぇ。」
「そういう感覚、大事だよ。」
二人は市場を抜けて、少し静かな通りへ入る。
そこには小さな寺院と、木々に囲まれた休憩所があった。
風が通り抜けるたび、葉が擦れる音がする。
「少し落ち着く場所だね。」
「はい。」
彩葉はベンチに座り、空を見上げた。
青空はいつの間にか薄い橙色に変わり始めている。
「夕方になると、街の音も変わるんだ。」
「昼の喧騒が少しずつ静かになって。」
「夜の準備を始める感じ。」
ラーチャプルックはそう言って、遠くを見つめた。
「準備……ですか?」
「うん。」
「でも悪い意味じゃないよ。」
「ただ“切り替わる時間”ってだけ。」
彩葉は頷きながら、屋台で買った飲み物を一口飲む。
冷たさが喉を通っていく。
「なんだか……安心します。」
「そっか。」
ラーチャプルックは少し嬉しそうに笑った。
しばらく二人は黙って街を眺めていた。
遠くで子どもが笑い、バイクが通り過ぎる音が響く。
平和そのものの時間だった。
だが、その空気は少しずつ変わり始めていた。
風が一瞬だけ止まる。
鳥の声が消える。
市場のざわめきが、遠くで途切れるように小さくなる。
彩葉はふと顔を上げた。
「……?」
「今の……なんですか?」
ラーチャプルックも目を細める。
「……おかしいね。」
「空気が……重い。」
その瞬間だった。
遠くの路地裏から、ざわりとした気配が流れてくる。
見えない何かが、街の隙間に紛れ込んだような違和感。
人々はまだ気づいていない。
笑い声は続いている。
だがその奥に、微かに歪んだ影のようなものが混ざり始めていた。
「彩葉ちゃん。」
「はい。」
ラーチャプルックの声が少しだけ低くなる。
「ここ、ちょっと離れた方がいいかも。」
「……何か来てますか?」
「うん。」
「“普通じゃないもの”が。」
風がもう一度止まる。
今度ははっきりとわかるほどに。
街の色が、ほんの少しだけ濁ったように見えた。
遠くの空に、黒い点が一瞬だけ揺れた。
それは鳥ではない。
雲でもない。
ただ、“何かがいる”という確信だけが残る。
ラーチャプルックはゆっくりと立ち上がる。
「楽しい観光はここまでかな。」
「……はい。」
彩葉も立ち上がる。
手の中の飲み物の冷たさが、やけに強く感じられた。
街の笑い声はまだ続いている。
だがその裏で、確実に“何か”が近づいていた。
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