第百三十一話 タイの空気と最初の違和感
――タイ。
その言葉を口にした瞬間、空気の質がほんのわずかに変わったように感じられた。
彩葉は海沿いの境界を越えた先で、ゆっくりと足を止める。
「……もう、タイに入ったみたい」
視線の先には、これまでの国とは少し違う“熱”があった。空気は重くはないのに、どこか密度が高い。遠くの街並みがゆらぐように見えるのは、気温のせいだけではない気がする。
「ぉ~~……」
思わずこぼれた声に、自分でも少し驚く。
そこには観光地としての明るさと、同時にどこか古い層が重なったような気配が混ざっていた。
海から離れた道はすぐに舗装された都市へとつながっていた。屋台のような小さな店が並び、香辛料の匂いが風に乗って流れてくる。
知らない言語の看板、行き交う人々の活気。
だがそのすべてが、どこか自然に受け入れられる形でそこに存在している。
「すごい……」
彩葉は歩きながら小さく呟いた。
これまで訪れた国々でも感じてきた“違い”はあったが、ここはそれ以上に、空間そのものが柔らかい。
まるで、国という枠が一度溶けてから再び固まったような印象だった。
路地に入ると、さらに音が増える。
金属のぶつかる音。水の跳ねる音。遠くで鳴る車のクラクション。
それらが混ざっているのに、不思議と不快ではない。
「……こういうのも、いいな」
彩葉は自分の胸の奥が少し軽くなるのを感じた。
戦いや移動の緊張とは別の、“ただ歩く”という行為。
それが今は妙に新鮮だった。
しばらく進むと、小さな橋の上に出る。川が街の中をゆっくりと流れていた。
その水面には、建物の影と空の色が複雑に混ざっている。
「ここがタイ……」
誰に向けるでもなく呟く。
すると、背後から軽い足音がした。
振り向くと、現地の服装をした子どもたちがこちらを見ていた。だが距離は一定に保っている。好奇心と警戒が半分ずつ混ざった視線だった。
彩葉は少しだけ手を振る。
すると、子どもたちは一瞬だけ固まり、次の瞬間には笑い声を上げて走り去っていった。
「……ふふ」
自然と笑みがこぼれる。
その時だった。
空気の奥に、わずかな“ざらつき”が混ざる。
彩葉の足が自然に止まる。
「……?」
さっきまでの柔らかさとは違う、ほんのわずかな異物感。
風ではない。人の気配でもない。
だが確かに“何か”が、この国のどこかに沈んでいる。
彩葉は視線を上げ、遠くの空を見る。
雲の流れがゆっくりと変わっていた。
「……気のせい、じゃないよね」
小さく呟いたその声は、街の喧騒にすぐに溶けていった。
それでも歩みは止めない。
ただ一歩ずつ、タイという土地の中へと進んでいく。
まだ何も起きていない。
けれど、何かが確実に“始まる前の形”をしてそこにあった。
ここまで読んでくれてありがとうございます。
次回もお楽しみに




