第百三十話 海へ続く別れの道
マレーシアの朝は、昨日よりも少しだけ湿度が高く感じられた。森を抜けた先にある道は、海へとまっすぐ伸びているようで、しかしどこか途中で世界の形がゆるやかにねじれているようにも見える。
彩葉はその道を歩いていた。隣にはブンガ・ラヤ、少し後ろにバンダ・ミス・ジョアキムが続いている。
「ほんとにもう行っちゃうの~?」
ブンガ・ラヤはいつもの調子で浮かびながら言うが、その声は少しだけ軽さを抑えていた。
「はい」
彩葉は短く答えたあと、少しだけ笑う。
「ここでいろんなことを知れたので」
「ふぅ~ん……」
ブンガ・ラヤは空中でくるりと回る。
「まぁ~旅ってそういうもんだけどねぇ~」
バンダ・ミス・ジョアキムは何も言わず、ただ紙束を軽く握り直していた。風に揺れる紙の音だけが、三人の間を通り抜ける。
やがて森の切れ目に、海が見えた。
広い青。水平線。遠くの雲がゆっくりと溶けるように流れている。
「わぁ……」
彩葉は足を止めた。
その景色には、戦いの記憶も、守護者の力も、ただの旅人としての視線もすべて溶けていくような静けさがあった。
「いいところでしょ~?」
ブンガ・ラヤが少し誇らしげに言う。
「うん……すごく綺麗です」
彩葉はそう言いながら、海風に髪を揺らした。
バンダ・ミス・ジョアキムがゆっくりと前に出る。
「ここから先は、タイの方向ね」
「はい」
彩葉は海を見つめたまま頷く。
少しの沈黙が流れる。
それは別れのための沈黙というより、次に進むための準備のような静けさだった。
「……ねぇ彩葉ちゃん」
ブンガ・ラヤがぽつりと呟く。
「なにかあったら、また戻ってきてもいいんだよ~?」
その言葉は軽いようでいて、どこか深い場所から出てきたものだった。
彩葉は少しだけ振り向く。
「戻っても、いいんですか?」
「いいに決まってるでしょ~」
ブンガ・ラヤは笑う。
「マレーシアはそういう国だよ~」
その言葉に、彩葉は小さく息を吐いた。
「……ありがとうございます」
バンダ・ミス・ジョアキムが一歩近づく。
「あなたの占いでは、まだ“先”が長いわ」
「はい」
「だから焦らないことね」
それだけ言うと、紙束を軽く胸元に抱え直した。
海風が強くなる。
潮の香りが濃くなり、足元の砂がわずかに音を立てる。
彩葉は海へ向かって一歩踏み出す。
しかし、まだ海には入らない。
ただ、そこに立ち止まり、水平線の先を見つめた。
「次は……タイですね」
誰にともなく言葉が落ちる。
ブンガ・ラヤが後ろで手を振った。
「気をつけてね~」
バンダ・ミス・ジョアキムも静かに頷く。
「えぇ」
彩葉はもう一度だけ振り返り、そして微笑む。
「行ってきます」
海風がその声をさらっていく。
そのまま彼女は海沿いの道を進み、やがて見えなくなっていった。
水平線だけが、しばらく三人の間に残り続けていた。
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