第百二十九話 寄り道の提案と怨念海域
翌日、マレーシアの森は昨夜の戦闘が嘘のように静かだった。湿った空気の中に鳥の声が戻り、葉の隙間から差し込む光が地面にまだら模様を描いている。
彩葉は川辺に立ち、水面をぼんやりと見つめていた。
「……」
昨日の戦いの余韻は、まだ完全には消えていない。ペナンガランの異質な存在感が、頭の奥に残像のように貼りついていた。
「どうしたの~?」
後ろからのんびりした声がかかる。
振り向くと、ブンガ・ラヤがいつものようにふわふわと浮いていた。まるで空気そのものに寄りかかっているような軽さだった。
「あ、ブンガ・ラヤさん」
彩葉は少しだけ間を置いてから言う。
「いえ、どうやってギリシャのパルテノン神殿に行こうか考えていて……」
「そうだねぇ~」
ブンガ・ラヤはゆっくりと回転しながら答えた。
「たまには~寄り道~してみたら~?」
「寄り道、ですか?」
「うん~」
その言葉は軽いが、不思議と押しつけがましさはなかった。
「そんなに固くちゃつかれちゃうよ~、今まで行ってきた国以外で知り合いとか~いないの~?」
彩葉は少し考えた。
「知り合い……」
そして小さく頷く。
「あ、小紅さん」
「小紅~?」
ブンガ・ラヤは目を細める。
「あ~中国の仙人だね~」
その言葉に彩葉は少し驚いた。
「知ってるんですか?」
「まぁ~ねぇ~」
「良いんじゃない~?中国に~行ってみたら~?」
川の水がゆっくりと流れる音だけが一瞬大きく聞こえた。
ブンガ・ラヤはさらに続ける。
「それにぃ~中国から~ギリシャ方面に~向かった方が~いろんな景色を~見れるよ~」
「……そうですね」
彩葉はゆっくりと頷いた。
「そうします!」
その声に迷いはもうなかった。
その時、背後から別の声がした。
「行くのですね」
振り返ると、バンダ・ミス・ジョアキムが紙束を手に立っていた。風に揺れる紙が静かに音を立てる。
「あ、バンダ・ミス・ジョアキムさん」
彩葉は軽く頭を下げる。
「はい♪ギリシャに向かう前に中国に行こうかと」
その言葉を聞いて、バンダは少しだけ目を細めた。
「ふぅ~ん……だったら、タイとベトナムを経由すると良いわ」
「え?」
突然の具体的なルートに彩葉は驚く。
「今は東シナ海の海上経由はやめた方がいいわ……絶対に」
その言葉は冗談ではなかった。
空気がわずかに重くなる。
「そ、そうなんですね……」
彩葉は自然と背筋を伸ばした。
ブンガ・ラヤが横から軽く補足する。
「あの辺りは~怨玉がいるからね~」
「怨玉?」
聞き慣れない単語に彩葉が首をかしげる。
バンダ・ミス・ジョアキムは淡々と説明した。
「戦争中に船の上で死んだ者の怨念の塊よ」
「厄介なんだから」
その言葉に、彩葉の表情が固まる。
「……そんなものが」
ブンガ・ラヤは軽く肩をすくめた。
「だから~普通は通らない方がいいんだよね~」
森の奥で鳥が一斉に飛び立つ音がした。
まるで何かを察知したかのように。
彩葉は静かに息を吐き、前を見た。
「わかりました」
その声は小さいが、確かな覚悟を含んでいた。
川の流れは変わらない。
しかし旅の方向は、また一つ変わり始めていた。
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