第百十六話 南国に流れる風の記憶
インドネシア。
夜明け前の空はまだ薄暗く、遠くの山々には淡い霧がかかっていた。
ジャングルの奥からは鳥の声が少しずつ響き始め、湿った風が草木を揺らしていく。
彩葉たちはその国のとある村の外れにいた。
前日までの騒がしさが嘘のように、朝は静かだった。
「……ここ、本当に平和ですね」
彩葉はゆっくりと周囲を見渡した。
サンパギータは少し離れた場所で、雲のようなものを揺らしながら立っている。
「ここはね」
「昔いろいろあった場所でもある」
ぽつりとサンパギータが呟いた。
「そうなんですか?」
彩葉が振り向くと、マツリカが大きく伸びをしながら現れた。
「うん~」
「でも今はぁ~」
「ちゃんと守られてるから大丈夫ぅ~」
その声はいつも通りのんびりしているが、どこか遠くを見るような目をしていた。
村の子どもたちが遠くで走り回っている。
笑い声が風に乗って届く。
「いい国ですね」
彩葉は素直にそう思った。
するとサンパギータが小さく頷いた。
「インドネシアは広い」
「島がたくさんある」
「その分、守護者も多い」
「なるほど……」
彩葉が感心していると、マツリカが急に近づいてきた。
「今日はねぇ~」
「ちょっとした市場に行こうと思ってるのぉ~」
「市場ですか?」
「うん~」
「この国の人たちの生活が一番わかる場所ぉ~」
サンパギータが静かに続ける。
「観光というより観察に近い」
「でも重要」
そうして三人は村の道を歩き始めた。
道の両側には果物の木が並び、熟した果実が風に揺れている。
遠くからは人々の声と、金属を叩くような音が聞こえてきた。
市場はすぐに見えてきた。
色と音と匂いが一気に押し寄せてくる。
「わぁ……!」
彩葉は思わず声を上げた。
鮮やかな布。
山積みの果物。
香辛料の香り。
魚の焼ける音。
あらゆるものが混ざり合っている。
「すごいです……!」
彩葉は目を輝かせた。
マツリカは嬉しそうに笑う。
「ここはいつ来ても楽しいよぉ~」
「人のエネルギーがいっぱいぃ~」
サンパギータは静かに市場を見渡していた。
その視線は観光ではなく、どこか守る者のそれだった。
「リーダーはここでよく食べる」
「食べ過ぎて怒られる」
「えぇ~?」
「怒られてないよぉ~」
そんなやりとりをしながら三人は市場を歩いた。
彩葉は屋台の果物を見つめている。
「これ、なんですか?」
「マンゴスチンだよぉ~」
「甘くておいしいぃ~」
一口食べると、優しい甘さが口いっぱいに広がった。
「おいしい……!」
自然と笑顔になる。
市場の奥では楽器のような音が響いていた。
リズムに合わせて人々が踊っている。
彩葉はそれを見て目を丸くした。
「楽しそう……!」
「ここはねぇ~」
「悲しいこともあるけどぉ~」
「楽しいこともいっぱいある場所ぉ~」
マツリカの言葉はゆっくりと響く。
サンパギータが小さく呟く。
「それがこの国」
市場を抜けると、海が見えてきた。
青く広がる水平線。
潮風が髪を揺らす。
「海……!」
彩葉は駆け出した。
波打ち際に立つと、足元に白い泡が寄せては返す。
「気持ちいい……」
サンパギータは少し離れた場所で海を見ていた。
マツリカは砂浜に座り込む。
「ここも好きぃ~」
「落ち着くぅ~」
潮風が三人の間を通り抜けていく。
時間がゆっくりと流れているようだった。
やがて太陽が傾き始める。
空が少しずつ橙色に染まっていく。
「夕焼けだ……」
彩葉は海の向こうを見つめた。
波が光を反射して金色に輝いている。
サンパギータが静かに隣へ来る。
「インドネシアの夕焼けは」
「静かで長い」
マツリカも空を見上げた。
「ずっと見ていられるぅ~」
太陽がゆっくりと沈んでいく。
空の色は赤から紫へと変わり、海と溶け合っていく。
鳥が遠くで鳴いた。
風が優しく頬を撫でる。
彩葉はその光景を胸に刻み込むように見つめていた。
(旅って……本当にすごい)
(知らない場所に来て)
(知らない景色を見て)
(知らない人に会う)
そしてそのすべてが、自分の中に積み重なっていく。
沈みゆく太陽の光の中で。
三人はしばらく何も言わずに、ただ夕焼けを見つめていた。
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