第百八話 夕焼けの海と飛来する影
サンパギータは、夕暮れの海を一度だけ見つめてから、静かに言った。
「そうだ、ついてきて」
彩葉は少し驚きながらも、すぐに頷く。
「え」
しかし迷いは一瞬だけだった。
「良い景色を見せてあげる」
その言葉に、彩葉は自然と足を動かしていた。
「はい!」
二人は並んで歩き出す。
砂浜を踏むたびに、細かい砂が音を立て、波の音と混ざり合っていく。
彩葉が最初に来た賑やかな海岸とは違い、そこは人気の少ない静かな浜辺だった。
風が柔らかく、潮の匂いが強くなる。
やがて二人は、少し高くなった岩場のある場所へ出た。
視界が一気に開ける。
彩葉は目を丸くした。
「ここは」
サンパギータは短く答える。
「ん」
そして前方を指差した。
その指の先に、海と空が溶け合うような景色が広がっていた。
橙色の光が波の上を走り、水平線が燃えているように見える。
彩葉は思わず声を上げる。
「え?……わぁ~!綺麗な夕焼けです~!」
サンパギータは少しだけ目を細めた。
「うん」
「私はこの景色、好きだから……いつもここに来てる」
その言葉には、説明ではなく習慣の重みがあった。
彩葉は嬉しそうに頷く。
「そうなんですね♪」
サンパギータはもう一度だけ小さく頷く。
「うん」
しばらく二人は黙ったまま海を見ていた。
波の音だけが、静かに時間を刻んでいく。
やがて彩葉が思い出したように口を開く。
「サンパギータさん!」
「なに」
「はい!」
サンパギータは視線を海から外さずに答える。
彩葉は指を少し伸ばし、遠くの海の向こうを指差した。
「あっちに少し見える島はなんですか?」
サンパギータは一瞬だけ沈黙した。
そして静かに言う。
「……あぁ、インドネシアという国だよ」
彩葉は目を輝かせる。
「そうなんですね♪」
「うん」
穏やかなやり取りが続く中、空の色はさらに深くなっていく。
橙は赤に、赤は紫に変わり始めていた。
彩葉はふと空を見上げる。
「あ、もう暗くなりましたね」
サンパギータは小さく頷いた。
「……うん」
その瞬間だった。
空気が変わる。
波音の奥に、異質な声が混ざる。
「そうだねぇ、今宵は狩りの時間だねぇ」
彩葉の背筋が一気に冷える。
「え!?」
サンパギータの目が鋭くなる。
「ッ!!」
空から降りてくる影。
コウモリのような翼を持ち、上半身だけの女性が宙に浮いていた。
その姿は人間というより、何か別の生き物に近い歪さを持っている。
「久しぶりだねぇ、サンパギータ」
「まずは貴様から……」
「ソイツの血も美味しそうだねぇ」
彩葉は息を呑む。
しかし一歩も下がらない。
サンパギータはゆっくりと前に出た。
「さがって」
低い声。
「わざわざ宿敵のとこに出てきてくれるなんて……」
「頭まで太陽に焼かれた?マナナンガル」
彩葉は小声で呟く。
「バナナサル?」
即座に返事が飛ぶ。
「マナナンガルよ!」
空気が一瞬だけ緩むが、すぐに張り詰め直す。
サンパギータは説明するように言葉を続けた。
「マナナンガルは“アスワング”という吸血鬼の一種」
「妊婦の赤子を狙う吸血鬼」
「私たちISMPPは、こいつらに対抗するための組織でもある」
「こいつらは他の吸血鬼と違って、人を襲いまくる危険な存在」
彩葉の目が大きくなる。
「え!?」
マナナンガルは笑う。
「そうさ、人間のしかも生まれる前の赤子の血はうまいからねぇ」
その言葉に、空気が一気に冷える。
彩葉は強く拳を握った。
「許せない!」
マナナンガルが首を傾げる。
「なにがだい?」
彩葉はまっすぐに睨み返す。
「新たな命を消すなんて!おかしいよ」
サンパギータは静かに言う。
「こいつらにそれは通じない」
「頭まで腐ってるから」
マナナンガルの目が細くなる。
「なんだと!!」
空気が爆ぜるように震えた。
そして翼が大きく広がる。
「まぁ良い」
「貴様らから……殺してやる!!」
夕焼けの海は、赤から黒へと変わり始めていた。
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