第36話 大商店主ヴァンサン・カーン来たる。肉屋のタレは、野菜の努力を焼き払う
市場に、甘辛い香りが流れ込んできた。
朝一番。
まだ野菜たちが水を浴び、豆苗が二回目の伸び具合を誇り、カリフラワー先輩のミラーボールが当然のように回っていた時間である。
その空気を、焼けた肉の匂いが殴ってきた。
じゅう。
じゅわ。
甘い。
辛い。
香ばしい。
米が欲しくなる。
俺は筆談板を握った。
『敵襲です』
「まだ敵とは限らないわよ」
野蒜ちゃんが言った。
だが、声が少し硬い。
野菜売り場において、肉の匂いは災害に近い。
昨日まで白とか芽とか余白とか言っていた市場が、一瞬で胃袋の国に支配される。
通路の向こうから、白い前掛けを翻した男が現れた。
大きな肉切り包丁。
磨かれた鉄板。
背後には幟。
大商店主ヴァンサン・カーン
肩書きが強い。
名前も強い。
異国の大商会を率いていそうな響き。
高麗人参が、赤い布の上で身構える。
エッセントゥーナ夫人が銀の鐘を横倒しにする。
ブロッコリーが珍しく笑みを薄くした。
ヴァンサン・カーンは、低く言った。
「肉、何グラムにする?」
肉屋だった。
◇
「今日の課題は決まったね」
ブロッコリーが言った。
出た。
肉の匂いに負けず健康そうだが、今日は少し真顔だった。
「肉の大商店主ヴァンサン・カーン。別名、晩餐館の使徒。彼のタレは強い」
晩餐館。
言われて気づいた。
ヴァンサン・カーン。
ばんさんかん。
俺は筆談板を掲げた。
『名前で遊ぶな』
「遊びではない」
ヴァンサン・カーンは鉄板の上で肉を返した。
じゅう。
市場中の子どもたちが振り返る。
ウリ坊も、目を輝かせていた。
「お肉!」
反則。
肉に向けるその笑顔は反則。
俺は少しだけ根の奥が沈んだ。
野菜たちは、毎回工夫している。
説明札。
下処理。
香りの管理。
ミラーボール。
プロトコル。
なのに肉は、焼けるだけで勝つ。
ずるい。
あまりにもずるい。
「条件は三つ」
ブロッコリーが続ける。
「肉の匂いに客を全員持っていかれないこと」
無理では。
「タレに野菜の個性を焼き払われないこと」
難しい。
「そして、マンドラゴラ君が『肉の横にいた気がする』で終わらないこと」
いつものやつ。
俺は筆談板に書いた。
『今日、勝てる要素ありますか』
エッセントゥーナ夫人が、銀の鐘を鳴らした。
「肉に勝つ必要はありませんわ」
また怖いことを上品に言いそうな顔だ。
「肉の記憶に、入り込むのです」
怖い。
でも、たぶん正しい。
◇
ヴァンサン・カーンの肉は強かった。
薄切り肉を鉄板に広げる。
焼く。
特製の甘辛だれを絡める。
仕上げに、照り。
終わり。
それだけ。
それだけで、客が吸い寄せられる。
「いい匂い」
「ご飯欲しい」
「弁当に入れたい」
「今日これでいいか」
今日これでいいか。
野菜売り場にとって、最も恐ろしい言葉である。
野菜を選ぶ前に、食卓が完結してしまう。
俺は筆談板に書いた。
『食卓が肉だけで完成しかけています』
高麗人参が、赤い布の上で厳かに言った気配がした。
「由々しき事態です」
くわい先輩も芽を揺らした。
「芽が出る前に刈られる気配があります」
ロマネスコ先輩が螺旋を震わせる。
「肉の照り、白の光を侵す」
『詩にしている場合ではありません』
◇
最初に挑んだのは、ピーマン勇者だった。
「時の勇者として、肉の横に立つ!」
ピーマンを細切りにして、肉と一緒に炒める。
王道。
悪くない。
だが、ウリ坊が食べて言った。
「お肉おいしい!」
負け。
ピーマン勇者は、木べらを落としかけた。
「勇者、添え物になった……」
次にしいたけ部長。
肉としいたけ。
旨味と旨味。
かなり強い。
だが、ウリ坊が言った。
「お肉とタレがすごい!」
しいたけ部長の笠が沈む。
旨味が、タレの照りに飲まれた。
次にカリフラワー先輩。
カリフラワーライスに肉をのせる。
白い。
きれい。
肉の照りが映える。
だが、客は言った。
「肉丼のご飯が変わった感じ?」
カリフラワー先輩の白が少し曇った。
米の座を狙った白が、肉の台座にされている。
危険。
白い乱の翌日には、肉の支配が来る。
食卓は厳しい。
◇
「正面から肉に挑んでは駄目ですわ」
エッセントゥーナ夫人が言った。
「肉は主役です。主役を押しのけようとすれば、潰されます」
パセリが震えた。
「では、主役を食う」
昨日の勝ち筋を覚えている。
夫人が頷く。
「ええ。ただし、今回はタレも強い。香味だけでは足りません」
彼女は俺を見た。
「深みが必要です」
俺か。
俺なのか。
マンドラゴラ。
濃い顔。
深み担当。
最近、深みと言われるとだいたい刻まれる。
俺は筆談板に書いた。
『またソースですか』
「今回は、漬けだれですわ」
漬けるのか。
肉を。
マンドラゴラで。
ヴァンサン・カーンがこちらを見た。
肉屋の目だ。
品定めする目。
「野菜が、肉のタレに口を出すか」
そう言っている顔だった。
俺は筆談板を掲げた。
『口は出せません。筆談です』
野蒜ちゃんが吹いた。
◇
作戦はこうだ。
ヴァンサン・カーンの甘辛だれを、そのまま使うと肉が勝つ。
だから、肉に絡める前に野菜で受ける。
玉ねぎで甘み。
パセリで香り。
マンドラゴラで土っぽい深み。
しいたけ部長で旨味。
くわい先輩を細かく刻んで、ほくっとした歯触り。
最後に、パクチー汁。
全員が椀を見た。
一滴。
絶対に一滴。
エッセントゥーナ夫人がスポイトを握る。
「本日は半滴ですわ」
市場がざわついた。
半滴。
新しい管理基準。
パクチー汁が不服そうに震えた。
「半滴とは」
そう言っている気配だった。
「あなたは今日は香りではなく、影です」
夫人が微笑む。
怖い。
香味の社交界、表現が怖い。
◇
マンドラゴラは細かく刻まれた。
ただし、完全なペーストにはしない。
噛むため。
いるため。
沈まないため。
パセリも刻む。
しいたけ部長も刻む。
くわい先輩は、芽を見せたまま別皿で待機していた。
「芽は最後に立てるものです」
今日も圧が強い。
玉ねぎを炒める。
甘くする。
そこへマンドラゴラ。
しいたけ。
少しのくわい。
パセリ。
ヴァンサン・カーンのタレを少しずつ加える。
じゅわ。
香りが変わった。
肉のためのタレだったものが、野菜の中に入った。
甘辛いだけではない。
少し青い。
少し深い。
少しほくっとする。
そして半滴のパクチー汁。
危険な香りが、奥の方に一瞬だけ見えた。
逃げた。
いや、残った。
影として。
できあがったものを、焼いた肉に絡める。
さらに上から、刻みパセリ。
横に、カリフラワーライス。
そこへ、くわい先輩の小さな芽を一本、飾る。
完成。
晩餐館風・野菜が記憶を奪う肉皿
名前が物騒。
◇
試食はウリ坊。
肉を食べる。
沈黙。
まずいか。
いや。
ウリ坊の目が丸くなった。
「お肉!」
そりゃそう。
「でも、あとから一番根!」
勝った。
いや、入り込んだ。
「パセリもいる。しいたけ部長もいる。くわい先輩、ほくってする」
くわい先輩が芽を揺らす。
「芽は見えています」
食感の話をしている。
でも、本人は芽に帰る。
ウリ坊はもう一口食べた。
「お肉なのに、野菜の味をもう一回食べたくなる!」
市場がざわついた。
ヴァンサン・カーンの目が細くなる。
肉屋の目が、少し笑った。
「悪くない」
そう言っている顔だった。
認めた。
肉屋が。
野菜の漬けだれを。
俺は筆談板に書いた。
『勝ちましたか』
ブロッコリーが首を振った。
「勝ってはいない。共犯になった」
共犯。
肉と野菜の共犯。
かなり悪そう。
でも、食卓では強い。
◇
販売が始まると、客の反応は早かった。
「肉なのに後味が重くない」
「野菜も一緒に食べた感じがする」
「カリフラワーライスでも満足感ある」
「くわいってこう使えるの?」
「パセリ多めがいい」
「パクチーは……入ってる?」
入っている。
半滴。
言われなければ分からない。
でも、奥にいる。
パクチー汁はそれが少し不服そうだった。
だが、夫人が見ているので暴れない。
ヴァンサン・カーンの肉屋台には列ができた。
しかし、今日は肉だけではない。
横の野菜売り場にも客が流れた。
「このソースの野菜、どれ?」
「パセリください」
「しいたけも」
「くわい少し」
「マンドラゴラの説明カードあります?」
来た。
肉が入口になった。
野菜が出口ではなく、次の買い物になった。
俺は筆談板を握ったまま、少し震えた。
肉に負けたわけではない。
肉に客を連れてきてもらった。
これは、かなり大きい。
◇
高麗人参が、赤い布の上で静かに言った気配がした。
「他者の強みを使うことも、格の一つです」
今日は素直に聞けた。
カリフラワー先輩は、白い粒として皿の横にいた。
肉の台座ではない。
肉の照りを受け止める白い余白。
昨日の乱は無駄ではなかった。
ロマネスコ先輩が螺旋を震わせる。
「肉の焔、白の銀河、濃き根の影。晩餐は星雲となる」
『肉皿です』
俺は筆談板に書いた。
ロマネスコ先輩は満足そうだった。
なぜだ。
◇
夕方。
ヴァンサン・カーンは鉄板を片付けた。
市場は甘辛い香りの余韻に包まれていた。
肉は完売。
パセリも売れた。
しいたけ部長も売れた。
くわい先輩も思ったより売れた。
カリフラワーライス用のカリフラワーも動いた。
そして、マンドラゴラの説明カードは、また減っていた。
ヴァンサン・カーンは俺の前に来た。
「濃い根菜」
そう言っている顔だった。
『仕様です』
「タレに使える」
『褒めていますか』
「肉が認めた」
重い。
肉が認めた。
何かの称号みたいだ。
ウリ坊が横で飛び跳ねる。
「一番根、肉に認められた!」
反則。
本日最大。
俺は少し悩んでから、筆談板に書いた。
『条件付きで光栄です』
ヴァンサン・カーンは笑った。
「次は、ひき肉で来る」
市場が凍った。
ひき肉。
強い。
万能。
コロッケにも、そぼろにも、詰め物にもなる。
肉屋、再戦予告。
ブロッコリーが健康そうに笑った。
「次の課題も決まったね」
『まだ決めるな』
◇
その日の記録には、こう書かれた。
大商店主ヴァンサン・カーン来場。実態は肉屋。
晩餐館風タレにより市場が一時肉支配下へ。
マンドラゴラ、パセリ、しいたけ、くわいを用いた漬けだれで野菜の記憶を付与。
カリフラワーライス、肉皿の余白として機能。
パクチー汁、半滴管理に成功。本人は不服。
ヴァンサン・カーン、再訪を示唆。ひき肉注意。
最後。
ひき肉注意。
分かる。
かなり分かる。
夜。
W.H.O.ポスターの横に、新しい札が貼られた。
肉は強い。
強いものに勝てない時は、記憶に入り込む。
タレは戦場であり、入口でもある。
その下に、ウリ坊が書き足した。
一番根、お肉とともだち?
俺は筆談板を持ち上げた。
ともだち。
肉と。
それは違う気がする。
だが、敵というほどでもない。
利用し、利用され、食卓へ届く。
俺は少し考えて書いた。
『共犯です』
ウリ坊は読めなかった。
「きょうはん?」
オーク農家が慌てて札を隠した。
「そこはまだ覚えなくていい」
市場に笑いが起きた。
指定野菜への道は、ついに肉屋と手を組んだ。
根菜だけど、今日は認める。
肉は、強い。
そしてタレは、もっと怖い。




