第二章 第15話 後編 『忠勝へのプレ饗応』
外野の嫌がらせと信長の理不尽な圧力を、光秀の悪知恵と左近の勢い、ケロタンの珍妙な技でひっくり返す!
……だが、おもてなしが成功に近づくにつれ、光秀の瞳には異様な光が宿り始める。
「天下の行く末のため……上様、敢えて怒っていただきましょう」
光秀の胸に秘められた、あまりに切なく、壮大な深慮遠謀とは——?
歴史の結末が哀しいからこそ、今は思いきり笑い飛ばす!
史実のリアルと食文化の深掘りに、光秀の覚悟、そしてテンポ抜群の喜劇を掛け合わせた、命がけの過剰接待サイココメディ開幕!
第二章 第15話 後編
『忠勝へのプレ饗応』
昼下がりの風が、小広間の障子をふわりと揺らした。
庭の池では、蝉時雨に負けじと鹿威しが鳴る。
上座に忠勝。
その袖を、茶々がしっかりつかんでいる。
「姫、そろそろお放しを。」
蘭丸が小声で言う。
「やだ。」
茶々は即答した。
「……お許しを。」
忠勝は静かに言い、そのまま座った。
天下一の武辺者の隣に、小さな姫が、ちょこんと座る。
光秀は笑いをこらえ、一礼した。
「本番前ではございますが、ささやかな試し膳をご用意いたしました。」
「かたじけない。」
忠勝は深く頭を下げる。
その姿は、先ほどまでの豪壮な武将ではなく、礼を重んじる一人の侍であった。
◇
襖が、音もなく開いた。
膳を頭に載せた左近が、すっと入ってくる。
畳を擦る足音は、ほとんどない。
一歩。
また一歩。
膳の上の汁椀が、水面ひとつ揺らさない。
忠勝の目が、ほんのわずかに細くなった。
(……これか。)
左近は忠勝の前で膝を折り、頭の膳をゆっくりと下ろす。
そのまま、深く揖した。
そして。
トトト……
トトトト……
魚の尾びれのような足さばきで、静かに後ずさる。
踵は、一度も浮かない。
左近は、もう隠さなかった。
忠勝は、何も言わず、その足を最後まで見届けた。
「……お待たせいたしました。」
光秀が言う。
「近江の鮎の塩焼きにございます。」
◇
膳の上。
炭火で焼かれた鮎が、一尾。
皮は薄く焦げ、背に塩が白く光っている。
その脇に、夏瓜の浅漬け。
薄く削った蘇が、瓜の上でゆっくりと溶けていく。
香の物。
そして、井戸水を冷やした椀。
忠勝は、静かに箸を取った。
まず、鮎の背へ。
ぱり、と皮が鳴る。
身をほぐすと、湯気とともに、川藻のような淡い香りが立った。
一口。
塩は強くない。
焼けた皮の香ばしさのあとに、身がほろりとほどけ、脂の甘みが舌に広がる。
箸を止める。
腹のあたりを、少しだけ口へ運ぶ。
ほろ苦い。
だが、その苦みがあるからこそ、後に残る甘みが際立つ。
忠勝は、ゆっくりと目を閉じた。
光秀も、左近も、ケロタンも、弥助も、息をひそめる。
茶々だけが、足をぶらぶらさせていた。
「おじちゃん、おいしい?」
「…………。」
忠勝は目を開け、井戸水の椀を取った。
一口。
昨日、井戸端で飲んだ水が、冷えて、そこにあった。
「うまい。」
たった二文字。
だが、その二文字で、光秀たちの肩から、すっと力が抜けた。
「近江の恵みが、そのまま膳の上にある。」
忠勝は椀を置く。
「飾りがない。ゆえに、ごまかしもない。」
「……恐れ入ります。」
「家康様も、お喜びになられよう。」
光秀は、深く頭を下げた。
その横で、茶々が鮎の尻尾をじっと見ている。
「ちゃちゃも、たべたい。」
弥助が無言で立ち上がった。
骨を抜き、身をほぐし、小さな椀へ。
大きな手が、驚くほど器用に動く。
「どうぞ。」
茶々は一口食べて、目を丸くした。
「おいしい!」
忠勝の口元が、ほんのわずかにゆるんだ。
◇
膳が下げられたあと、忠勝は光秀へ向き直った。
「明智殿。」
「はっ。」
「この膳、誰が考えた。」
「……手前にございます。」
「左様か。」
忠勝は、しばらく光秀を見つめた。
武辺者の目だった。
槍を持たずとも、人の腹の底を測る目であった。
「迷いのない膳でござる。」
低い声が、広間に落ちる。
「迷いのない膳ほど、恐ろしいものはない。」
光秀の指先が、わずかに止まった。
すぐに、いつもの穏やかな笑みを戻す。
「……お褒めの言葉と、頂戴いたします。」
「いかにも。」
忠勝は小さくうなずいた。
その表情からは、褒めたのか、探ったのか、読み取れない。
茶々が、忠勝の袖をくいくいと引いた。
「おじちゃん、またあした、たべにくる?」
「……本番の日に、参る。」
「ほんばん?」
「うむ。」
忠勝は、小さな姫へやさしく答えた。
「天下一の膳でござる。」
障子の向こうで、夕風が立ちはじめていた。
琵琶湖から運ばれた涼気が、安土城の廊下を静かに渡ってゆく。
笑顔の絶えない試し膳。
その穏やかな空気は、数日後に始まる天下の饗応へ向けた、何よりの吉兆であった。
光秀だけが、胸の奥で、忠勝の言葉を静かに繰り返していた。
(迷いのない膳……か。)
第16話へ続く
後書き:筆者の想いに寄せて
なぜ島左近なのか。なぜケロヨンなのか。
それは、左近の持つ「武人の潔さ」と、ケロヨンの持つ「健やかな日常の象徴」が合わさった時、初めて信長の「死の気配」に対抗できると考えたからです。
店頭で雨の日も風の日も立ち続けるあのカエルのように、ケロヨンは安土の激動をケロリと見過ごし、左近は主君のために地獄の釜を焚き続ける。
この二人がいたからこそ、光秀は本能寺という「最後の配膳」まで走り抜けることができました。歴史という名の厳しい「処方箋」を、少しでも楽しく、そして美味しく書き換えたい。そんな願いを込めた主役抜擢でございました。




