第二章 第15話 前編 『忠勝へのプレ饗応』
外野の嫌がらせと信長の理不尽な圧力を、光秀の悪知恵と左近の勢い、ケロタンの珍妙な技でひっくり返す!
……だが、おもてなしが成功に近づくにつれ、光秀の瞳には異様な光が宿り始める。
「天下の行く末のため……上様、敢えて怒っていただきましょう」
光秀の胸に秘められた、あまりに切なく、壮大な深慮遠謀とは——?
歴史の結末が哀しいからこそ、今は思いきり笑い飛ばす!
史実のリアルと食文化の深掘りに、光秀の覚悟、そしてテンポ抜群の喜劇を掛け合わせた、命がけの過剰接待サイココメディ開幕!
第二章 第15話 前編
『忠勝へのプレ饗応』
翌朝の安土城は、よく晴れていた。
盛夏の陽が黒瓦を焼き、白壁には蜃気楼のような光が揺れる。
琵琶湖から上がる風が、天守の松をさらさらと鳴らしていた。
城下からは商人の威勢のよい声。遠くの鍛冶場からは、槌音が小気味よく返ってくる。
◇
配膳室の隅で、左近は壁に手をつき、片足で立っていた。
「踵を浮かせる。……いや、浮かせぬのが見抜かれたのだ。ならば、あえて浮かせて……。」
「逆に怪しいケロ。」
ケロタンが頭の盆を磨きながら言う。
「昨夜から、ずっとそれケロ。」
「寝ておらぬのか。」
弥助が鮎の腹を指で押さえながら、ぼそりと言った。
「足より先に、鮎を見よ。」
その時、襖が開いた。
「左近。」
光秀であった。
「直すな。」
左近の動きが止まる。
「見抜かれたものを隠せば、隠したことが見える。あの足は、おぬしが戦場で積んだものじゃ。恥じることはない。堂々と見せよ。」
「……はっ。」
左近は、そっと踵を畳へ下ろした。
不思議と、足が軽くなった。
「本日、昼に試し膳を出す。」
光秀は一同を見渡す。
「鮎の塩焼き。近江の野菜。香の物。冷えた井戸水。小細工は一切せぬ。」
「毒見の下見に来た相手に、毒のない膳を見せる。」
弥助が低く言った。
「それが一番の答えでござる。」
「うむ。」
光秀は小さくうなずいた。
「あの男は、見るものを見て、言うべきことしか言わぬ。ならば我らも、ありのままを出す。」
◇
その頃。
忠勝は、蘭丸の案内で長い廊下を歩いていた。
槍は式台に預けてある。背が軽い。
それでも歩幅は、昨日と寸分も変わらない。
庭の池では、鹿威しがこつん、と鳴った。
その時である。
「おじちゃーん!」
廊下の角から、小さな影が飛び出した。
茶々であった。
忠勝は、ぴたりと止まった。
「…………。」
茶々は忠勝の前まで来て、顎を上げ、ぐいと見上げる。
「おじちゃん、おっきい!」
「……は。」
「くろいおよろい、かっこいい!」
兜の下の耳が、みるみる赤くなった。
「……あ、ありがとう、存じまする。」
声が、少し裏返った。
蘭丸が慌てて袖で口を覆う。
茶々は首をかしげた。
「おじちゃん、おみみ、あかいよ?」
忠勝は兜の紐へ手をやる。
「こ、これは……暑さでござる。」
「あつい? おじちゃん、あつがり?」
「……左様。」
天下一の武辺者が、小さな姫の前で、完全に押されていた。
茶々は忠勝の周りをくるりと回る。
「あれ? おじちゃん、やりは?」
「式台に、お預けしてござる。」
「てぶら?」
「……手ぶら、でござる。」
「ふうん。」
茶々は少し考えた。
「やりのおなまえ、なんていうの?」
忠勝は、わずかに肩の力を抜いた。
「蜻蛉切、と申す。」
「とんぼ?」
「穂先に止まった蜻蛉が、そのまま二つに分かれるほど、鋭いゆえ。」
茶々の目が、まんまるになった。
「……とんぼさん、かわいそう。」
廊下が、しんと静まった。
蘭丸が思わず忠勝の顔を見る。
忠勝は、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと膝を折り、茶々と目の高さを合わせた。
「……左様でござる。」
低い声が、やさしく響いた。
「ゆえに、この槍は、命を粗末にせぬ者の手にあらねばならぬ。拙者は、そう心得ておる。」
茶々は、じっと忠勝を見つめた。
「じゃあ、おじちゃんは、やさしいひとだ。」
「…………。」
忠勝の耳が、また赤くなった。
◇
「お待たせいたしました。」
廊下の向こうから、光秀が現れた。
後ろに、割烹着の三人が控えている。
光秀は膝を折った忠勝と、その前に立つ茶々を見て、一瞬だけ目を見張った。
(……この男、これほどの顔も持っておったか。)
だが、すぐに穏やかな笑みを戻す。
「ささやかな試し膳をご用意いたしました。小広間へ、どうぞ。」
「かたじけない。」
忠勝が立ち上がる。
すると、茶々がその袖をつかんだ。
「ちゃちゃも、いく!」
「姫……。」
蘭丸が止めようとする。
忠勝は、袖を引かれたまま、光秀へ小さく頭を下げた。
「……お許しいただければ。」
光秀は、笑いをこらえながら答える。
「どうぞ。賑やかなほうが、膳もうまくなりましょう。」
天下に名高い猛将が、小さな姫に袖を引かれて廊下を進んでゆく。
その背を見送りながら、左近はそっとつぶやいた。
「……あの足も、あのような時には、迷うのだな。」
「何か言ったケロ。」
「いや。何でもない。」
夏の陽が、廊下の板を白く光らせていた。
後編へ続く
後書き:筆者の想いに寄せて
なぜ島左近なのか。なぜケロヨンなのか。
それは、左近の持つ「武人の潔さ」と、ケロヨンの持つ「健やかな日常の象徴」が合わさった時、初めて信長の「死の気配」に対抗できると考えたからです。
店頭で雨の日も風の日も立ち続けるあのカエルのように、ケロヨンは安土の激動をケロリと見過ごし、左近は主君のために地獄の釜を焚き続ける。
この二人がいたからこそ、光秀は本能寺という「最後の配膳」まで走り抜けることができました。歴史という名の厳しい「処方箋」を、少しでも楽しく、そして美味しく書き換えたい。そんな願いを込めた主役抜擢でございました。




