第37話 今日の食卓
第37話 今日の食卓
離婚からまもなく二年になる、かつての結婚記念日の朝、凛子は目覚まし時計が鳴る前に目を覚ました。カーテンの隙間から入る光はまだ薄く、椅子の背には昨夜畳み忘れた白いタオルが掛かっている。枕元のスマートフォンには予定を知らせる通知が表示されていたが、凛子はすぐには画面へ触れなかった。今日が何の日なのかは、通知を見なくても分かっていた。
凛子は薄い水色のパジャマのまま台所へ行き、六枚切りの食パンを一枚焼いた。ゆで卵とトマトを白い皿へ載せ、コーヒーには牛乳を少し多めに入れた。拓也と暮らしていた頃は彼の好みに合わせて濃くいれていたが、今は自分が飲みやすい色になるまで牛乳を注いでいる。冷蔵庫の扉には、「午後六時半」と書いた小さな付箋が貼られていた。
今夜、凛子は一人で高層階のレストランへ行く。あの結婚記念日の夜に出されたものと同じ、真鯛のポワレを食べるためだった。最初のフラッシュバックから一年近くが過ぎ、カウンセリングへ通い、黒いノートも二冊目に入っている。それでも予約の電話をかけるまでには、受話器を置いては持ち直すことを三度繰り返した。
カウンセラーからは、行くことだけを正解にしないよう言われていた。店の前で引き返しても、席へ座ったあとで帰っても、これまでの歩みがなくなるわけではない。真鯛を一口も食べられなければ、別の料理へ変更してもよかった。凛子は冷蔵庫の付箋を見ながら、教えてもらった言葉を口にした。
「行かなくてもいい。席に座っても、途中で帰っていい」
言葉にすると、予定を取り消す権利が自分にあることを確かめられた。以前の凛子なら、一度決めたことは最後までやり遂げなければならないと考えただろう。今は、できない自分を叱るためではなく、できるところまで試すために予約をしていた。凛子は冷めかけたコーヒーを飲み、朝食の皿を洗った。
会社では、経費精算の新しい仕組みがすっかり定着していた。田辺は後輩からの質問へ答える立場になり、佐伯と二人で新入社員向けの説明会も担当している。淡いグレーのスーツを着た凛子が月末の資料へ目を通していると、田辺が社員から寄せられた質問をまとめた帳面を持ってきた。表紙にはコーヒーの丸い染みがつき、青い付箋が何枚も横から飛び出していた。
「課長、今日、何か予定があるんですか。朝から四回も時計を見ていますよ」
田辺に言われ、凛子は腕時計から手を離した。自分では気づかなかったが、数字を一行確認するたびに時刻を確かめていたらしい。机の端には、田辺からもらった一口まんじゅうが置かれている。包装紙には栗の絵が描かれ、賞味期限は今日までだった。
「仕事が終わってから、少し出かけるの。まんじゅうは昼休みにいただくわ」
昼休み、凛子は約束どおり包装を開けた。中には小さな栗が一粒入っており、温かいほうじ茶と一緒に食べると、餡の甘さが舌へ残った。甘いものを食べても今夜への構えがなくなるわけではなかったが、昼食を抜かずに済んだことには安心した。食べ終えた頃、美咲から短いメッセージが届いた。
「返事はいりません。今夜、凛子さんが食べたいものを、食べられる分だけ食べられますように」
以前の美咲なら「課長」と呼んでいたが、この一年で二人の関係も少し変わった。美咲の母親は介護サービスを利用しながら自宅で暮らし、美咲も仕事を辞めずに通院の付き添いを続けている。凛子は返信の代わりに、犬が湯飲みを持っている絵文字を一つ送った。事情を知っている人がいることは、鞄の底へ予備のハンカチを入れているような安心になっていた。
仕事を終えると、凛子は会社近くの化粧室で着替えた。衣装袋から出したのは、最後の結婚記念日に着ていた黒いワンピースだった。クリーニングへ出してから長くクローゼットへしまっていたが、裾にはワインをこぼした跡が、ごく薄く残っている。凛子は染みを指でこすらず、鏡の前で細いパールのネックレスを留めた。
口紅を塗り直し、仕事用の靴から細いヒールの黒いパンプスへ履き替えた。足元まであの日と同じになったことで、胸の内側が少し速く動き始める。違うのは、鞄に白いハンカチだけでなく、二冊目の黒いノートと小さなペットボトルの水を入れていることだった。スマートフォンの予約画面には、「一名」と表示されている。
「今日は、誰かに置いていかれる席ではない」
凛子は鏡の中の自分へ言い、化粧室を出た。廊下では清掃員がモップを掛け、洗剤の匂いがわずかに残っている。凛子は乾いているところを選んで歩き、受付の社員へ「お疲れさまでした」と挨拶をした。黒いワンピースを誰かに見られても、隠す必要はなかった。
予約した店は、あの日とは別の高層ビルの二十八階にあった。同じ店を選ばなかったのは、過去を正確に再現するためではなく、今の自分が夕食を食べるためだった。エレベーターが上がるにつれて耳の奥が詰まり、凛子は何度か唾をのみ込んだ。扉が開くと、磨かれた床の向こうに、雨上がりの東京の夜景が広がっていた。
受付の女性は凛子の名前を確認し、窓際の席へ案内した。向かい側にも椅子はあったが、二人目のためのナイフやフォークは置かれていない。凛子は空いた椅子を見つめ、自分だけが取り残されたように感じないかを確かめた。胸の内側はまだ速く動いていたが、両足は床についていた。
「お一人でのご予約でございますね。どうぞ、ごゆっくりお過ごしください」
女性は余計なことを尋ねず、メニューを一冊だけ置いた。凛子は椅子へ腰を下ろし、黒いワンピースの裾を膝の上で整えた。窓の外では車のライトが細い流れを作り、濡れた道路が白く光っている。あの日と似た景色だったが、同じ店でも、同じ夜でもなかった。
飲み物を尋ねられ、凛子は白ワインではなく炭酸水を注文した。ワインを避けたことを負けだとは考えず、今夜の自分が飲みたいものを選んだ。運ばれてきたグラスには薄いレモンが一枚浮かび、細かな泡が次々と上がっている。凛子は一口飲み、舌の上ではじける刺激を確かめた。
前菜は、カボチャのムースと小さなサラダだった。フォークを持つ手は動き、カボチャの甘みも、葉にかかったドレッシングの酸味も分かった。焼きたてのパンには、塩気のあるバターを少しだけ塗った。食べられることに安心しかけた頃、給仕係が次の皿を持って近づいてきた。
白い皿の中央には、皮目をこんがりと焼いた真鯛が載っていた。周囲には黄色と緑色のソースが描かれ、湯気と一緒に香草バターの匂いが立ち上っている。皿がテーブルへ置かれる小さな音を聞いた瞬間、凛子の指は膝の上で止まった。胸元のパールが急に重くなり、記憶の中から窓を打つ雨音が戻ってきた。
「料理、冷める前に戻るって」
拓也の声が、耳の近くで聞こえた気がした。凛子はフォークを取らず、窓の外へ目を向けた。赤い航空障害灯、隣のビルの青い看板、交差点で停車した白いバスを一つずつ確かめる。次にパンの温かさへ触れ、足の裏でパンプスの中敷きを押した。
「離婚から、もうすぐ二年。ここは別の店の二十八階。私は一人で、自分の夕食を食べに来た」
小さく口にすると、給仕係が水を注ぎに来た。凛子は何でもないふりをせず、少し時間をかけて食べると伝えた。給仕係は、必要なら料理を温め直すこともできると答え、それ以上急かさずに離れた。凛子は炭酸水を一口飲み、冷たいグラスを両手で包んだ。
香草バターの匂いは消えなかった。結婚記念日の夜に一人で待った記憶も、拓也が真央のもとへ行った事実も変わらない。それでも今の凛子には、席を立つ自由があり、食べる自由もあった。どちらを選んでも、自分を責める必要はなかった。
凛子はナイフとフォークを手に取った。真鯛の端を小さく切ると、白い身から湯気が上がった。ソースを少しだけつけ、口元まで運ぶ途中で一度手が止まった。凛子は皿へ戻さず、そのまま口へ入れた。
皮には焼いた香ばしさがあり、身は柔らかかった。香草バターにはレモンの酸味が加えられ、下に敷かれたジャガイモには魚の汁が染みている。あの日は冷えた料理を前にして、自分が何を食べたのかさえ分からなかった。今夜は一つずつ味が分かった。
凛子はフォークを置き、白いハンカチで口元を押さえた。涙は出なかったが、胸の奥にはまだ固いものが残っている。それを今夜のうちに消す必要はなかった。拓也が幸せであるようにという言葉も、まだ心へ浮かばなかった。
真央を許せたとも、すべて終わったとも思えなかった。それでも凛子は、今日の食卓へ自分の足で来た。黒いワンピースを着て、自分で予約をし、自分で飲み物を選び、温かい真鯛を一口食べた。誰かの帰りを待つためでも、拓也を見返すためでもなかった。
「いただきます」
凛子はもう一度、小さく口にした。一口目を食べる前には言えなかった言葉だった。真鯛をもう少し大きく切り、今度は黄色いソースと緑色のソースを両方つけた。二口目は途中で止まらず、温かいうちに口へ入った。
食事を終えるまでには時間がかかった。真鯛をすべて食べることはできず、パンも半分残したが、デザートの小さなプリンは最後まで食べた。カラメルには少し苦みがあり、美咲が固いプリンを端から食べる姿を思い出した。凛子はスマートフォンを取り出し、空になったプリンの皿だけを撮った。
「食べられました。全部ではないけれど、味が分かりました」
美咲へ送ると、すぐに返事は来なかった。母親の家で忙しくしているのかもしれず、凛子はスマートフォンを伏せた。以前なら既読になるまで何度も画面を確かめただろう。今夜は誰かの反応を待たず、残った炭酸水をゆっくり飲んだ。
しばらくすると、美咲から犬が拍手をしている絵文字が一つだけ届いた。長い励ましも、もう大丈夫ですねという言葉もなかった。凛子は絵文字を見て口元を緩め、画面を閉じた。今夜の出来事を説明し直さなくても、食べられたという事実だけで十分だった。
会計を済ませて店を出ると、外の雨はやんでいた。エレベーターの鏡には、黒いワンピースを着た凛子が一人で映っている。裾の薄い染みも、少し崩れた口紅も、そのままだった。凛子はパールのネックレスへ触れ、鏡の中の自分へ小さくうなずいた。
帰宅すると、朝に畳み忘れた白いタオルが椅子の背へ残っていた。凛子は黒いワンピースから木綿の部屋着へ着替え、ネックレスを外して小さな箱へ戻した。湯を沸かしてほうじ茶を入れると、レストランの香草バターとは違う香ばしい匂いが部屋へ広がった。食卓には二冊目の黒いノートと、朝に使ったコーヒーカップが置かれていた。
凛子はカップを流しへ運び、黒いノートを開いた。今日の日付を書き、その下へ、真鯛を二口食べたこと、味が分かったこと、途中で帰らなかったことを記した。最後まで食べられなかったことも、隠さずに書いた。ページの終わりには、短い一文だけを加えた。
「私は今日の食卓を、自分のために守った」
凛子は目を閉じたが、拓也のために祈る言葉は出てこなかった。代わりに、今日の自分が無事に帰宅できたこと、食べ物の味が分かったことへの感謝を伝えた。立派な結末も、完全な許しも求めなかった。明日の朝に食べるパンと卵が冷蔵庫にあることを確かめ、凛子は自分の手で玄関の灯りを消した。




