第36話 真央からの手紙
第36話 真央からの手紙
火曜日の夕方、凛子はスーパーの袋を右手に提げ、マンションの郵便受けを開けた。中には電気料金のお知らせと不動産会社の広告、それに白い封筒が一通入っている。封筒には以前住んでいた住所が書かれ、その上へ郵便局の転送シールが貼られていた。差出人の欄にある「藤村真央」という名前を見た瞬間、袋の中で買ったばかりの卵がぶつかり、小さな音を立てた。
凛子は郵便受けの前で、封筒を持ったまま動けなかった。廊下の窓には夕方から降り始めた雨が細く流れ、下の道路を走る車の音が遠く聞こえる。エレベーターが到着して扉が開くと、濡れた作業着を着た男性が降りてきた。凛子は通路を空けようとしたが、足がすぐには動かなかった。
「すみません。通ります」
男性の声で、凛子は壁際へ寄った。封筒を電気料金のお知らせの間へ挟み、スーパーの袋を抱え直してエレベーターへ乗る。鏡に映った顔は白く、淡いピンクのブラウスの襟が片側だけジャケットの中へ折れ込んでいた。凛子はそれを直そうとしたが、指先が冷たくなり、布をうまくつまめなかった。
部屋へ入ると、凛子は玄関の灯りをつけ、スーパーの袋を台所まで運んだ。卵は割れていなかったが、牛乳のパックが横倒しになり、長ネギの青い部分が袋から飛び出している。冷蔵庫へしまう順番を何度も間違え、豆腐を野菜室へ入れそうになった。白い封筒は食卓の端へ置いたが、視界へ入るたびに裏返し、しばらくするとまた表へ戻した。
夕食には、買ってきた豚肉とキャベツを炒めるつもりだった。包丁でキャベツを切り始めても、葉の大きさがそろわず、まな板から二枚が床へ落ちた。フライパンへ油を入れたところで火をつけていないことに気づき、火をつけたあとは豚肉を入れる順番を忘れた。結局、凛子は調理を諦め、冷蔵庫に残っていた豆腐と昨夜の味噌汁を食卓へ出した。
味噌汁の表面には薄い膜が張り、豆腐は箸で持ち上げると角から崩れた。凛子は二口だけ食べ、箸を置いた。封筒を開けなければ内容は分からないが、開けないまま捨てれば、何が書かれていたのかを考え続ける気もした。凛子は流しで手を洗い、布巾で指の間まで拭いてから、机の引き出しからペーパーナイフを取り出した。
便箋は三枚あり、薄い花柄が入っていた。最初には、突然手紙を送ったことへの謝罪が書かれている。続いて、真央が拓也と別れたこと、自分が頼るたびに拓也が凛子を置いて来ていたと知りながら、それを止めなかったことが並んでいた。最後の一枚には、同じ言葉が少し形を変えながら何度も書かれていた。
「私が間違っていました。一度だけ会って、直接謝らせてください。あなたに許してほしいとは言いません。せめて私の話を聞いてください」
読み終えた瞬間、窓を打つ雨音が急に大きくなった。部屋には拓也の上着などないのに、酒と濡れたウールの匂いが鼻の奥へ戻ってくる。結婚記念日の夜、玄関から入ってきた拓也はネクタイを緩めながら、凛子へ「少し考えてやれよ」と言った。凛子は便箋を持つ指へ力を入れ、花柄の端を折り曲げた。
「どうして、今になって私が聞かなければいけないの」
声を出すと、胸の内側で速く動いていたものが少しだけ緩んだ。真央は許してほしいとは言わないと書きながら、自分の謝罪を受け取ってほしいと願っている。会って謝ることで真央が何を得るのかは書かれていたが、凛子が会うことで何を失うかは書かれていなかった。凛子は便箋を封筒へ戻し、すぐに返事を書こうとして黒いノートを開いた。
最初に浮かんだのは、「二度と連絡しないでください」という言葉だった。その下には、「あなたが拓也を引き取ったのだから、最後まで面倒を見ればよかった」と書いた。さらに、「今さら被害者のような顔をしないで」と続け、青いボールペンで便箋を破るほど強く線を引いた。書き終えた凛子は、自分の呼吸がまだ速いことに気づいた。
以前なら、言葉を整えて丁寧な返事を作ったかもしれない。真央にも事情があり、拓也にも弱さがあり、自分にも至らない点があったと書けば、立派な大人に見える。しかし黒いノートには、誰にも見せない言葉まで立派である必要はないと、すでに学んでいた。凛子はノートを閉じ、返事は少なくとも三日間書かないと決めた。
翌日、カウンセリングルームへ入ると、カウンセラーは薄い黄色のカーディガンを着ていた。机の青いマグカップの横には、クマの付箋ではなく、小さな猫のクリップが置かれている。凛子は真央からの手紙を鞄に入れてきたが、封筒を取り出すだけで指が冷たくなった。カウンセラーは読むことを求めず、凛子が話し始めるのを待った。
「会って謝りたいと書いてあります。許してほしいとは言わないそうです。でも、話を聞いてほしいと」
カウンセラーは、凛子自身は会いたいのかと尋ねた。真央がどれほど反省しているかでも、会えば何を説明するかでもなく、凛子が何を望んでいるかを聞いた。凛子は答えようとして、膝の上に置いた鞄の持ち手を何度も握り直した。会えば真央を責めることができ、拓也と別れた理由を聞くこともできるかもしれない。
「聞きたいことがないわけではありません。拓也と一緒になって、本当に幸せだったのか。私から奪ったものが、欲しかったものだったのか」
口にすると、その質問への答えを聞いた自分を想像した。真央が幸せだったと言えば、結婚していた三年間まで否定されたように感じるかもしれない。幸せではなかったと言われれば、自分の生活を壊したものが誰も幸せにしなかったことになる。どちらを聞いても、冷えた真鯛の味が変わるわけではなかった。
「それを聞くことは、今の凛子さんの生活に必要でしょうか」
カウンセラーは、会うべきとも、会わないべきとも言わなかった。返事を書かない選択も、代理人を通す選択も、短い返事だけを送る選択もあると説明した。凛子は、真央が納得する答えではなく、自分の生活を守れる答えを考えてよいのだと理解した。帰り道、駅前の八百屋で桃を二個買い、封筒とは別の袋へ入れて持ち帰った。
その夜、凛子は美咲へ電話をかけた。美咲は母親の退院に備えて実家の冷蔵庫を整理しており、受話口の向こうから容器の蓋を開け閉めする音が聞こえた。賞味期限が三年前の焼き肉のたれが出てきたという話を聞き、凛子は少しだけ笑った。美咲は手を止め、真央の手紙について尋ねた。
「課長は、会いたいんですか」
カウンセラーと同じ質問だった。凛子は、分からないと答えた。会わなければ逃げたと思われるかもしれず、許せない人間だと思われるかもしれない。美咲は冷蔵庫の扉を閉める音をさせてから、誰にそう思われるのが困るのかと尋ねた。
「真央さんにですか。拓也さんにですか。それとも、課長自身にですか」
凛子は答えず、食卓に置いた黒いノートを開いた。数日前には、自分のために祈れないと書いている。別のページには、選ばれなかったからといって、愛される価値がなかったわけではないと書いた。相手の望みへ応じることだけが、優しさでも謙遜でもないはずだった。
「会いたくない。手紙を読んでから、玄関の時計をまた何度も見てしまったの。真央の話を聞くために、今の生活をあの頃へ戻したくない」
美咲は、それなら今はその答えでよいのではないかと言った。将来、考えが変わったとしても、今の凛子が会わなければならない理由にはならない。真央が謝りたいという必要と、凛子が安心して暮らしたいという必要は、同じではなかった。美咲は、冷蔵庫の奥から梅干しの瓶が三つも出てきたと話し、母親は塩分を控えるよう言われているのにと小さくため息をついた。
「美咲さん、その梅干しの話、今しなくてもいいでしょう」
凛子が言うと、美咲は真面目な話が続くと息をするのを忘れるからだと答えた。凛子は電話を耳に当てたまま、買ってきた桃を冷蔵庫へしまった。手紙のことだけで夜を埋めなくてもよいのだと思えた。電話を切る前に、美咲は返事を書くなら、送る前に一晩置くよう勧めた。
三日後の朝、凛子は白いブラウスへアイロンを掛け、朝食にトーストとゆで卵を食べた。卵の殻がうまくむけず、白身の表面は小さな穴だらけになった。食器を洗ってから、無地の便箋と封筒を机へ置いた。黒いノートには何ページも言葉を書いたが、真央へ渡す言葉は長くする必要がなかった。
「お手紙を読みました。私はあなたとは会いません。あなたを罰するためではなく、現在の私の生活を守るためです。これ以上の連絡はしないでください」
書き終えた凛子は、文字の形や行間を確かめた。責める言葉も、真央を慰める言葉も加えなかった。真央が望む和解を与えなかったからといって、凛子が誰かを傷つける人間になるわけではない。謝罪を受け取ることと、謝罪した人を自分の生活へ迎え入れることは別だった。
便箋を封筒へ入れ、宛名を書いてから、凛子は一晩だけ机の上へ置いた。翌朝になっても気持ちは変わらず、通勤途中の郵便ポストへ投函した。封筒が細い投入口の向こうへ落ちる音を聞くと、指先にはまだ少し冷たさが残った。凛子はポストの前で立ち止まらず、駅へ向かって歩いた。
帰宅した夜、凛子は冷蔵庫から桃を一つ取り出した。皮をむいて八つに切り、白い皿へ並べると、熟した甘い香りが部屋へ広がった。真央へ返事を出したことを、勝利とも許しとも呼ぶ気にはなれなかった。凛子は最も形のよい一切れを自分で取り、黒いノートを開いた。
「会わないことを選んだ。相手の望みを断ることも、自分を置き去りにしない方法だった」
その下へ、凛子は日付を書いた。真央を許せたとは書かず、もう気にならないとも書かなかった。窓の外では雨がやみ、ベランダの手すりから水滴が一つ落ちた。凛子は残った桃をゆっくり食べ、空になった皿を自分の手で流しへ運んだ。




