リターン第一話 「ただの幼馴染だから」
リターン第一話 「ただの幼馴染だから」
グラスの中で、淡い金色の白ワインが静かに揺れていた。窓の外には雨に濡れた東京の夜景が広がり、高層階のレストランから見下ろす車のライトが、川の流れのように連なっている。拓也はネイビーのジャケットの袖口を整え、テーブルの端に置かれたフランスパンを指先でちぎった。硬い皮が白いクロスへ落ちるたび、向かいに座る凛子が顔を上げるのを待ったが、彼女は窓の外ばかり見ていた。
目の前には、湯気をまとった真鯛のポワレが置かれていた。香草バターの匂いが鼻先まで届き、黄色と緑色のソースが白い皿を彩っている。料理は運ばれてきたばかりなのに、拓也はフォークを取る気になれなかった。三回目の結婚記念日くらいは仕事を忘れ、二人でゆっくり食事ができると思っていた。
「なあ、凛子」
拓也が声をかけると、凛子はようやく窓から顔を戻した。白いブラウスに黒いタイトスカートを合わせ、耳元には小さなパールのイヤリングをつけている。仕事帰りに化粧を直したらしく、頬の近くからは、いつもと違う香油の匂いがした。凛子はグラスへ指を添え、少し得意そうに笑った。
「この店、予約を取るのが大変だったのよ。夜景が見える席は、二か月待ちだったんだから」
「ありがとう。来年は僕が予約するよ」
「温泉でもいいわね。拓也、最近ずっと忙しかったでしょう」
その言葉を聞き、拓也はようやくフォークを持った。最近は出勤時間がずれ、朝食も別々に取ることが増えていた。冷蔵庫には凛子が買ったヨーグルトと、拓也が作り置きした味噌汁が並んでいるが、一緒に食べたのがいつだったか思い出せない。今夜はその話もできるだろうと考え、真鯛の端へナイフを入れた。
そのとき、テーブルの上に置かれた凛子のスマートフォンが短く震えた。凛子は画面を見た瞬間、整えていた眉をわずかに曇らせた。表示された名前は、拓也の席からも読めた。結婚する前から何度も聞かされてきた、男性の幼馴染の名前だった。
「……真也?」
拓也の指先が止まった。凛子は迷わず画面を操作し、電話を耳へ当てた。受話口から、男のかすれた声が漏れてくる。周囲のピアノ演奏に紛れて内容までは聞き取れなかったが、凛子の表情が変わっていくのは分かった。
「もしもし。どうしたの」
『ごめん、凛子。こんな日に電話するつもりはなかったんだけど、ちょっと怖くなって……』
「今、一人なの?」
『うん。急に息が苦しくなってさ。部屋にいるのが怖いんだ』
凛子は椅子を引き、テーブルの下へ置いていた鞄を持ち上げた。拓也は切り分けた真鯛をフォークへ刺したまま、妻の手元を見つめた。まただという言葉が喉まで上がり、飲み込む前に口からこぼれた。凛子は鞄の持ち手を握り、わずかに顔をしかめた。
「……また?」
「またって何よ。真也、かなり具合が悪そうなの」
「今日は結婚記念日だよ」
「分かってる。でも、真也は今、一人なのよ」
拓也は何も言えなくなった。自分も凛子と二人きりでこの席にいるのだと、わざわざ言葉にするのがみじめに思えた。隣の席では、若い男女が一つのデザートを分け合い、女性の口元についたクリームを男性が笑いながら指摘している。拓也はグラスの縁に残ったワインの雫を親指で拭い、自分の席だけが店内から切り離されたように感じた。
「様子を見たら、すぐに戻るから」
凛子はネイビーのコートを羽織り、椅子の背へ引っかかったベルトを直した。拓也の返事を待たず、スマートフォンを鞄へ入れる。真鯛からはまだ湯気が上がっていた。凛子はテーブルを離れる前に、一度だけ皿を見た。
「料理が冷める前には戻るわ」
「……分かった」
拓也には、そう答えることしかできなかった。凛子は申し訳程度に片手を上げ、そのまま店を出ていった。入口の扉が開いたとき、雨の匂いを含んだ冷たい風が流れ込み、拓也の足元を撫でた。向かいの椅子には、凛子が使った白いナプキンだけが残っていた。
十分たっても、三十分たっても、凛子は戻らなかった。真鯛のポワレは冷え、黄色いソースの表面から艶が消えている。拓也は一口だけ食べたが、魚の身は硬くなり、香草バターの香りも重く感じられた。ウェイターが水を注ぎ足しながら、向かいの空席へ目を向けた。
「お連れ様は、もう少しかかりそうでしょうか」
「すぐに戻ると言っていました。もう少し待ちます」
拓也は作り笑いを浮かべ、スマートフォンを確認した。通知はなく、画面には現在時刻だけが表示されている。店内の客は少しずつ減り、食器を片づける音が増えていった。遠くの席から漂うコーヒーの香りと、窓を打つ雨音だけが、時間の経過を教えていた。
閉店時間が近づいた頃、ようやくスマートフォンが震えた。拓也はすぐに画面を開いたが、届いたのは短い一文だけだった。事情の説明も、待たせたことへの言葉もなかった。拓也は何度も読み直し、消えかけた画面を親指で明るくした。
『ごめん。今日は戻れない』
拓也は二人分の料理代を支払い、店を出た。外では細い雨が降り続き、革靴の底が濡れた石畳を鳴らした。街のネオンは明るく、傘を寄せ合って歩く男女の声が聞こえる。拓也はタクシーへ乗り、窓を流れていく夜景を眺めながら、膝の上でネクタイの先を握った。
まただ。真也が電話をすれば、凛子は予定を変える。真也が眠れないと言えば夜中まで話を聞き、仕事で失敗したと言えば休日でも会いに行く。拓也が不満を口にすると、昔からの幼馴染だから仕方がないと説明された。結婚する前から続いてきた関係なのだから、夫である自分が理解するべきなのだと言われた。
「ただの幼馴染だから」
凛子はいつも、その一言を最後に置いた。拓也には、その言葉が説明ではなく、何をしても許されるための札に思えた。幼馴染なら、結婚記念日の席から夫を置き去りにしてもよいのか。答えを考えているうちに、タクシーは自宅マンションの前へ着いた。
帰宅したのは、深夜一時を過ぎた頃だった。部屋の中は暗く、冷蔵庫のモーター音だけが低く響いている。玄関の靴箱の上には先週届いた通販の段ボール箱が置かれ、誰も開けないまま薄く埃をかぶっていた。拓也は箱につまずきそうになり、足で壁際へ寄せてから電気をつけた。
リビングの隅には、読みかけの雑誌と飲み終えたペットボトルが積まれていた。朝に洗った茶碗は水切り籠の中で乾き、凛子が使ったマグカップだけが流し台へ残っている。拓也はネイビーのジャケットを脱いでハンガーへ掛け、ネクタイを緩めてソファへ座った。ワンルームではないのに、部屋がいつもより狭く感じられた。
玄関の鍵が回ったのは、それから三十分ほど後だった。扉が開き、凛子が明るい声で「ただいま」と言った。甘い香水と酒の匂いが、雨に濡れたコートから漂ってくる。具合の悪い男性を見に行ったはずなのに、頬は薄く赤らんでいた。
「……おかえり」
拓也はソファへ座ったまま答えた。凛子はパンプスを脱ぎ、左右をきれいにそろえてから、コートを椅子の背へ掛けた。鞄からスマートフォンを出すと、画面には真也から届いたらしいメッセージがいくつも並んでいる。凛子はそれを確認しながら、冷蔵庫を開けた。
「今日は本当にごめん。でも、真也がかなり不安定だったの。放っておけなかった」
「具合が悪かったんじゃないの?」
「少し飲んだら落ち着いたわ。昔の話をしているうちに、時間を忘れちゃって」
拓也は立ち上がり、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。蓋を開けようとしたが、指に力が入りすぎて、薄いプラスチックが小さな音を立てた。結婚記念日の席で待っていたことも、一人で会計をしたことも、凛子の中ではすでに終わった出来事になっているらしい。拓也は冷たい水を一口飲み、妻の背中へ声をかけた。
「僕のことも、少しは考えてくれないか」
凛子は冷蔵庫の扉を閉め、振り返った。質問の意味が分からないという顔をしている。拓也はペットボトルをテーブルへ置き、真也から連絡が来るたび、自分が後回しにされてきたことを話した。声を荒らげないようにするほど、喉の奥が乾いていった。
「真也ばかり優先して、僕はどうでもいいの?」
「だから、どうしてそうなるのよ」
「今日は僕たちの結婚記念日だった。君が予約した店で、僕は閉店まで一人で待っていたんだ」
凛子は面倒そうに息を吐いた。コートのポケットから取り出したハンカチで、雨に濡れた髪の先を拭いている。夫が何を訴えているかより、自分が責められていることのほうが気になるようだった。やがて凛子は、信じられないものを見るように笑った。
「真也は、ただの幼馴染でしょう。そんなに嫉妬しないでよ。みっともない」
その瞬間、拓也は何も言えなくなった。流し台では、凛子が朝に使ったマグカップの縁から水滴が落ち、ステンレスの底へ乾いた音を響かせている。胸の奥に入った亀裂は、音もなく広がった。拓也はペットボトルの蓋を閉め、妻の顔から静かに目をそらした。
窓の外では、冷たい雨がアスファルトを打ち続けていた。凛子はもう一度スマートフォンを開き、真也への返事を打ち始めた。拓也はその指の動きを見ながら、凛子が自分の痛みに気づく日は来るのだろうかと考えた。少なくとも今夜、夫が何を失ったのかを、彼女はまだ何も知らなかった。
そこで、男女を入れ替えた物語は終わっていた。凛子は原稿の最後へ、拓也だけに向けた一文を付け加えた。
「これであなたにも、私に何が起こったのか、少しは分かったかしら?」
君が待つ一人きりの夜のレストラン
冷めたポワレに滲む孤独よ




