↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
36/40

第34話 美咲のための一時間

第34話 美咲のための一時間


月曜日の朝、凛子は目覚まし時計を止め、ベッドの上で昨日のZoom集会を思い返した。美咲は凛子がカメラを切ったことに気づき、理由を聞き、祈れない日があってもよいと話してくれた。それなのに凛子は、美咲の犬柄のマグカップのことは覚えていても、美咲がどのような一週間を過ごしていたのかを知らなかった。カーテンを開けると曇った空が広がり、ベランダでは昨夜干した白いハンカチが湿ったまま揺れていた。


朝食には、昨夜の雑炊の残りを温めた。卵は汁を吸って固くなり、小松菜も色がくすんでいたが、しょうゆを少し足すと食べられた。凛子は美咲へ「昨日はありがとう」とメッセージを送ろうとして、指を止めた。感謝だけを伝えて終われば、また美咲を自分の話を聞いてくれる人という役割へ戻してしまう気がした。


「昨日は話を聞いてくれてありがとう。美咲さんは最近、きちんと休めていますか」


送信したあと、凛子は自分の質問が唐突ではなかったか気になった。美咲なら「大丈夫です」と答えるかもしれず、それ以上聞けば負担になる可能性もある。相手を気遣うことと、相手の事情へ勝手に踏み込むことは違う。凛子はスマートフォンを鞄へ入れ、淡いピンクのブラウスに紺色のパンツスーツを合わせて会社へ向かった。


午前中、美咲からの返事はなかった。凛子は総務課の会議で田辺の報告を聞き、佐伯が作った操作手順書の誤字を三か所直した。机の隅には先週から使っている青い付箋が散らばり、一枚はコーヒーカップの底へ張りついていた。昼休みになっても既読がつかないのを確かめた凛子は、これまで美咲がすぐに返事をくれていたこと自体を、当たり前に受け取っていたと気づいた。


昼食は、朝に作った梅干しのおにぎりと、コンビニで買った豚汁だった。凛子が給湯室で豚汁の蓋を開けると、隣にいた田辺が弁当箱から少し焦げた卵焼きを取り出した。今朝は砂糖と塩を間違えかけたと話す田辺に、凛子は味見をしなかったのかと尋ねた。田辺は、妻から台所でつまみ食いをすると夕食が減ると言われているのだと笑った。


「課長は、最近ちゃんと食べていますか。この前の会食では、何も食べずに帰りましたよね」


凛子は、自分が田辺を気に掛けているつもりでも、田辺のほうから見られていることもあるのだと思った。人間関係は、いつも助ける人と助けられる人に分かれているわけではない。美咲にも、話を聞く人ではなく、話を聞いてもらいたい日があるはずだった。凛子は冷めかけた豚汁を飲みながら、田辺へ今は食事を取れていると答えた。


午後三時を過ぎた頃、美咲からようやく返事が届いた。昨夜、入院している母親から電話があり、朝までほとんど眠れなかったと書かれている。退院後に一人で暮らすのは難しいかもしれず、仕事を続けながらどこまで支えられるか分からないという。最後にはいつものように、「でも、私は大丈夫です」と添えられていた。


その文章を見た凛子は、すぐに電話をかけたくなった。しかし、美咲が勤務中かもしれず、電話で事情を詳しく話したいとも限らない。以前の拓也は、真央が「怖い」と言えば凛子との約束を放り出し、必要なことを確かめないまま駆けつけた。関心を示すとは、相手の人生へ勝手に入ることではなく、何を必要としているのかを本人へ尋ねることだと凛子は考えた。


「話したくなったら聞きます。今日は電話とメッセージのどちらが楽ですか。それとも、そっとしておいたほうがいいですか」


美咲からは、仕事が終わったら少しだけ会いたいと返事があった。電話では母親に聞かれる心配があり、自宅では落ち着いて話せないらしい。凛子は駅前の喫茶店を提案したが、場所は美咲が決められるように三つの店の名前を送った。美咲が選んだのは、以前二人で固いプリンを食べた小さな喫茶店だった。


午後六時半、凛子が店へ入ると、美咲は窓際の席に座っていた。淡い黄色のカーディガンの袖口には小さな毛玉ができ、髪は後ろで簡単に束ねられている。目の下には薄い影があり、犬柄のハンカチを膝の上で何度も畳み直していた。テーブルには水だけが置かれ、美咲はまだ何も注文していなかった。


「ごめんなさい。私から会いたいと言ったのに、何を頼むか決められなくて」


凛子はメニューを開き、美咲が以前固焼きプリンを気に入っていたことを思い出した。しかし、「プリンにしましょう」と決めつけず、温かいものと冷たいもののどちらが欲しいかを尋ねた。美咲はしばらく迷い、プリンとミルクティーを選んだ。凛子はチーズトーストとブレンドコーヒーを注文し、テーブルの砂糖壺が空になりかけていることに気づいた。


「美咲さんは、どうしたいの」


料理が届く前に凛子が尋ねると、美咲はすぐには答えなかった。母親を助けたいのは確かだが、仕事を辞めて実家へ戻ることには迷いがあるという。母親は娘なら介護するのが当然だと言い、兄は仕事が忙しいため美咲に任せるつもりでいた。美咲はハンカチの犬の耳を指でこすりながら、自分が薄情なのではないかと口にした。


「母のことは大切です。でも、仕事も辞めたくありません。そんなことを言ったら、誰にも分かってもらえない気がして」


凛子は、自分の経験をすぐに重ねそうになった。誰かのために我慢してきた話や、自分を後回しにしない大切さを説明することもできた。しかし、今必要なのは凛子の答えではなく、美咲が自分の考えを最後まで話せる時間だった。凛子は届いたチーズトーストをすぐに食べず、湯気の立つミルクティーを美咲の手元へ寄せた。


「分かってもらえるかどうかを、今ここで決めなくていいと思う。私は、美咲さんが本当はどうしたいのかを聞きたいの」


美咲はプリンのカラメルを端から少しずつすくいながら話し始めた。母親の家から通える範囲で利用できる支援を調べたいこと、兄にも週末だけは協力してほしいこと、会社を辞める結論は支援制度を確認してからにしたいことを話した。凛子は途中で助言を挟まず、紙ナプキンの裏へ必要なことだけを書き留めた。プリンのサクランボは最後まで皿の端に残っていた。


話し終える頃、美咲のミルクティーは半分ほど冷めていた。凛子のチーズトーストも固くなり、端をかむと小さな音がした。美咲は申し訳なさそうに頭を下げたが、凛子は冷めたものは電子レンジがなくても食べられると笑った。美咲はようやくサクランボを口へ入れ、種を紙ナプキンへ包んだ。


「課長に話を聞いてもらう日が来るとは思いませんでした。いつも私が課長の話を聞く役でしたから」


その言葉に、凛子は胸元へ手を当てた。美咲が進んで聞いてくれるため、そういう人なのだと決めていた。助けてもらうことに慣れ始めた一方で、助けてくれる人にも生活があり、守りたい仕事があり、迷う夜があることを十分に考えていなかった。凛子はコーヒーを一口飲み、少し冷めた苦みを確かめた。


「ごめんなさい。私は美咲さんを、いつでも話を聞いてくれる人にしていたのね」


美咲は謝ってほしいわけではないと答えた。自分も、しっかりした人に見られたくて、頼られる側へ回っていたところがあるという。二人はどちらが悪かったかを決めず、次に会うときは最初にどちらの話を聞くか、じゃんけんで決めようと話した。美咲は久しぶりに声を出して笑い、犬柄のハンカチを鞄へしまった。


店を出ると、夜の空気には雨上がりの匂いが残っていた。凛子は駅の改札まで美咲と歩き、明日、介護休業や地域の相談窓口について一緒に調べると約束した。ただし、美咲が望むことだけを手伝い、先回りして手続きを進めないことも確認した。改札の前で美咲は立ち止まり、凛子のブラウスの襟が折れていると教えた。


「課長、こういうところは相変わらずですね」


凛子は襟を直し、美咲のカーディガンの袖口についていた糸くずを取った。どちらか一人だけが支えるのではなく、気づいたほうがそのときできることをする。それでも、助ける前には相手へ必要かどうかを尋ねる。凛子は美咲を見送りながら、その小さな約束を忘れないよう黒いノートへ書こうと思った。


帰宅すると、朝に湿っていた白いハンカチはすっかり乾いていた。凛子は木綿の部屋着へ着替え、冷蔵庫に残っていた豆腐の味噌汁を温めた。表面に張っていた薄い膜を箸で混ぜ、美咲のために何ができるかではなく、美咲が何を望んでいるかを思い返した。食後、黒いノートを開き、凛子は青いボールペンで一行ずつ書いた。


「関心を持つとは、相手のためによいと思うことを勝手にすることではない。相手が何を大切にし、何を必要としているのかを尋ねること。助けてくれた人にも、助けてほしい夜がある」


凛子はノートを閉じる前に、美咲の名前を書いた。母親の問題がすぐに解決するようにではなく、美咲が必要な助けを受けながら、自分の生活も守れるようにと願った。今夜は、自分のことだけを話す祈りにはならなかった。しかし、誰かの必要を想像で決めず、その人の声を聞いたあとで祈ることができた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。