第33話 祈れない日もある
第33話 祈れない日もある
日曜日の朝、凛子はカーテンを開け、窓辺の観葉植物へ水をやった。雨はやんでいたが、ベランダの手すりには小さな水滴が並び、向かいのマンションの屋上も薄い雲に隠れている。熱は下がり、喉の痛みもほとんど消えていたものの、体にはまだ少し重さが残っていた。凛子はアイボリー色のワンピースではなく、首元のゆったりした水色のブラウスと、柔らかな紺色のスカートを選んだ。
朝食には、宅配で頼んだまま残っていた白いおかゆを温めた。溶き卵と刻んだネギを加え、梅干しを一つだけ中央へ載せる。鍋の底には米粒が薄く張りつき、火を止めるのが少し遅かったことが分かった。凛子は木べらで焦げる前の部分まで丁寧にすくい、白い茶碗へ移した。
食後、凛子はパソコンを食卓の中央へ置き、Zoom集会へ入るためのリンクを開いた。画面に映る範囲を確かめると、椅子の背には昨日畳み忘れたタオルが掛かり、机の端には読みかけの新聞と薬の空き袋が残っている。以前ならすべて片づけてからカメラをつけただろうが、その日はタオルだけを端へ寄せ、薬の袋はそのままにした。画面へ現れた美咲が、凛子の顔を見るなり小さく手を振った。
「課長、顔色が戻りましたね。でも、今日は終わったらちゃんと休んでくださいよ」
凛子はマイクをオンにし、昨夜は久しぶりによく眠れたと答えた。美咲の後ろでは、白いカーテンの端が風に揺れ、机の上には犬柄のマグカップが置かれている。以前、凛子が泣いたときに差し出されたハンカチと同じ犬だった。集会の開始を知らせる音楽が流れ、美咲と凛子はマイクを切った。
その日の話では、人を許すことが取り上げられた。話し手は、受けた仕打ちを何度も思い返して相手への反感を育て続けないようにすることや、自分も間違いを犯す不完全な人間であることを忘れないようにすると説明した。凛子は聖書を開き、紹介された聖句の下へ細い鉛筆で線を引いた。ところが、「自分を傷つけた相手のために祈ることもできます」と聞いた瞬間、鉛筆の先が止まった。
拓也の顔が頭へ浮かんだ。酒の匂いをまとって帰宅し、「ただの幼馴染だろ」と笑った顔だった。続いて、三十九度の熱を出した凛子へ「お前は強いから大丈夫」と言い残し、真央のもとへ向かった背中が見えた。凛子は鉛筆を置き、膝の上で両手を握った。
以前なら、拓也のために祈れない自分には信仰が足りないと考えただろう。復讐を望まず、相手の幸福を願える人にならなければ、いつまでも成長できないと思い込んだかもしれない。しかし今は、胸の内側で固くなっていくものを無視したまま、立派な言葉を並べようとは思わなかった。凛子は震え始めた指を伸ばし、Zoomのカメラをオフにした。
「今日は、祈りたくない」
マイクを切ったまま口にすると、自分の声だけが部屋へ残った。凛子は立ち上がり、台所でほうじ茶を入れた。急須へ湯を注ぐと香ばしい匂いが立ち、湯気が頬の近くまで上がってきた。戻る途中で椅子に掛けたタオルが床へ落ちたが、凛子はすぐには拾わず、温かい湯飲みを両手で包んだ。
画面では話が続いていた。凛子は無理に聖句をノートへ書き写さず、ほうじ茶を一口ずつ飲みながら耳を傾けた。飲み終える頃には、指先の冷たさが少しずつ戻っていた。カメラを切ったことを責める人も、祈れない理由を尋ねる人もいなかった。
集会が終わると、参加者たちは画面越しに挨拶を交わした。凛子はカメラを戻したが、いつものように笑顔を作ることはできなかった。美咲から個別の通話が入り、凛子は一度深く息を吐いてから応答した。美咲は犬柄のマグカップを持ち、何も知らないふりをせずに尋ねた。
「途中でカメラを切りましたね。具合が悪くなりましたか」
凛子は湯飲みの底へ残った茶葉を見つめた。体調のせいにすれば、それ以上説明せずに済む。しかし、助けてほしいときに大丈夫だと言い続けてきた自分を、もう繰り返したくなかった。凛子は湯飲みをテーブルへ置き、正直に答えた。
「今日は拓也のために祈りたくなかったの。あの人を許す話を聞いていたら、また私が我慢しなければいけないような気がした」
美咲はすぐに答えず、マグカップへ口をつけた。画面の向こうで時計の音が小さく鳴り、誰かが廊下を歩く足音も聞こえた。凛子は、許せないと言えば信仰のない人間だと思われるのではないかと考え、美咲の表情を見た。美咲はカップを置き、いつもの落ち着いた声で話した。
「祈りを、自分を責める道具にしなくていいと思います。言いたくないことを立派に言い直しても、エホバには本当の気持ちが分かっていますから」
凛子は膝の上で指を開いた。美咲は、許すことは受けた行為を正しいことにする意味ではなく、相手との関係を元へ戻す義務でもないと続けた。拓也がしたことの責任は、凛子が祈るかどうかで消えるものではない。凛子はその言葉を聞き、床へ落ちたタオルを拾って椅子へ戻した。
「でも、いつか祈れる人になりたいと思ったの。それなのに今日は、名前を口にすることさえ嫌だった」
美咲は、それなら今日は名前を口にしなくてよいと答えた。いつかと願ったことを、毎日できなければならない約束へ変える必要はない。体調のよい日と悪い日があるように、過去と向き合える日も、そこから離れて休む日もある。美咲は犬柄のマグカップを画面へ少し近づけ、中身が冷めてしまったと話した。
「私、話しているとお茶を飲むのを忘れるんです。課長は、今日は温かいうちに飲めましたか」
凛子は空になった湯飲みを持ち上げた。美咲が真面目な話の途中でお茶の温度を気にしたことがおかしく、凛子の口元が少し動いた。朝から張りついていたものが消えたわけではないが、呼吸はしやすくなっていた。凛子は、もう一杯入れるつもりだと答えた。
通話を終えると、凛子は遅い昼食の支度を始めた。冷蔵庫には卵が二つと、小松菜の残り、それに昨日のうどんの汁が入っている。うどんの汁へ小松菜と卵を加え、ご飯を入れて雑炊にした。卵を割ったとき、小さな殻が鍋へ落ち、凛子は箸で何度も追いかけてようやく取り出した。
食卓へ雑炊を運び、凛子は目を閉じた。拓也のために祈る言葉は、やはり出てこなかった。自分のために何を願えばよいのかも、まだうまくまとまらない。それでも今日は、できないことをできるふりにしないまま、口を開いた。
「エホバ、今日はあの人のために祈りたくありません。許したくないと思っていることも、あなたはご存じです。今は、私が自分を責めずに休めるように助けてください」
祈りを終えても、拓也への考えがきれいに消えたわけではなかった。凛子は雑炊を一口食べ、少し薄いと感じてしょうゆを二滴だけ足した。許すことは拓也のもとへ戻ることではなく、祈ることも拓也の責任を免除することではない。何より、祈れない日があるからといって、自分まで見捨てる必要はなかった。
午後、雲の隙間から日が差し、ベランダの手すりに残っていた水滴が乾き始めた。凛子は朝から椅子に掛けていたタオルを畳み、洗濯物の棚へしまった。黒いノートには、「今日は祈れなかった」とだけ書いた。その下へ言い訳も反省も加えず、凛子はノートを閉じて、温かいほうじ茶をもう一杯入れた。




