第32話 私が私を迎えに行く
第32話 私が私を迎えに行く
木曜日の夕方から降り始めた雨は、退勤時刻になっても弱まらなかった。凛子は白いブラウスの上へ薄手の紺色のコートを羽織り、会社の玄関で折り畳み傘を開いた。朝は晴れていたため、足元には雨の日用の靴ではなく、細い飾りのついたベージュのパンプスを履いている。歩道へ出て間もなく靴の中へ水が入り、ストッキングがつま先へ冷たく張りついた。
駅まで
# 第32話 私が私を迎えに行く
夕方から降り始めた雨は、凛子が会社を出る頃には歩道を白く煙らせるほど強くなっていた。凛子は紺色のパンツスーツの上へ薄いベージュのレインコートを着込み、鞄から折り畳み傘を取り出した。傘の骨が一本だけ少し曲がっており、開くたびに右側が低くなる。それでも買い替えるほどではないと思い、凛子は鞄を左の肩へ掛け直して駅へ向かった。
総務課では経費精算の新しい仕組みを説明する会議があり、田辺が初めて発表を担当した。最初は手元の資料ばかり見ていたが、途中から顔を上げ、質問にも自分の言葉で答えていた。佐伯は隣で操作画面を映し、田辺が言葉に詰まると、説明を奪わずに必要な資料だけを指で示した。会議が終わったあと、田辺は残っていたペットボトルの水を一気に飲み、凛子へ頭を下げた。
「緊張しました。でも、やってみてよかったです。次はもう少し、ゆっくり話します」
凛子は、説明が分かりやすかったと伝えた。以前の自分なら、改善点を先に三つ並べたかもしれないが、その日は田辺ができたことから話した。机へ戻ると、昼に飲み残した紙コップのコーヒーが冷え、表面に薄い膜を作っている。凛子は一口飲んでから顔をしかめ、流しへ捨てた。
駅へ向かう途中、雨水が靴の縫い目から入り、凛子のストッキングはつま先まで濡れた。電車の冷房がいつもより強く感じられ、つり革を握る手にも力が入らない。朝から喉に少し違和感があったが、会議の準備で話し続けたせいだと思っていた。自宅の最寄り駅へ着く頃には、肩が重くなり、傘を持つ腕までだるくなっていた。
マンションの廊下へ入ると、凛子は濡れた傘を閉じ、玄関の鍵を鞄から探した。内ポケットへ入れたはずの鍵が見つからず、レシートやハンカチを何度も出しているうちに、指先が細かく震えた。ようやく底から鍵を取り出して扉を開けると、暗いはずの部屋に明かりがついている。朝、玄関の照明を消さないまま出勤していたのだった。
「また無駄なことをしてしまった」
以前なら、何時間分の電気代を使ったのかを計算し、自分の不注意を何度も責めただろう。ところがその夜は、温かい色の光が、雨に濡れた靴や重くなった鞄まで一緒に迎えてくれているように見えた。凛子は玄関へ座り込み、パンプスを脱いで、濡れたストッキングをつま先からゆっくり外した。足を拭くためのタオルを取りに行く前に、もう一度灯りを見上げた。
「今日は、帰ってきた私を迎える灯りだったことにしよう」
そう口にすると、電気代を無駄にしたという事実まで消えるわけではなかった。それでも、消し忘れた自分を叱り続けるより、無事に帰ってきたことを先に考えてもよい気がした。凛子はレインコートを浴室へ掛け、紺色のパンツスーツから厚手の部屋着へ着替えた。洗面所の籠には昨日のタオルが一枚残り、洗濯機の蓋には片方だけの靴下が載っていた。
台所へ立ち、冷蔵庫から作り置きの野菜スープを出したが、鍋を持つ腕に力が入らなかった。体温計を脇へ挟むと、表示は三十八度一分で止まった。数字を見た瞬間、三十九度の熱を出して一人で朝まで耐えた結婚生活の夜が浮かんだ。凛子は鍋の蓋を持ったまま、玄関へ続く廊下を見た。
「凛子は一人でも大丈夫だろ」
拓也の声を思い出すと、台所の床が少し遠く感じられた。あの夜も水をくみ、薬を探し、豚汁の匂いに耐えながら食パンをかじった。できたから大丈夫だったのではなく、誰も帰ってこなかったからするしかなかった。凛子は鍋を調理台へ戻し、壁へ手をついて椅子まで歩いた。
今夜も一人であることは同じだった。しかし、何もかも我慢し、朝まで耐える必要はなかった。凛子はスマートフォンで夜間診療の案内を調べ、表示された相談窓口へ電話をかけた。受話口の看護師へ体温と症状を伝えると、水分が取れているか、呼吸に苦しさはないかと順番に尋ねられた。
「水は飲めます。喉が痛くて、体が重いです。一人暮らしなので、今夜どうすればいいか教えてください」
一人だと伝えることに、以前ほど抵抗はなかった。看護師は、今夜のうちに受診が必要な症状と、翌朝まで休んでもよい状態を説明した。手元に解熱剤があるか確認され、凛子は薬箱を開けた。使用期限の切れた胃薬や、何に使ったか分からない軟膏まで出てきたが、処方された解熱剤は残っていなかった。
電話を切ったあと、凛子は食べられそうなものを宅配で注文した。卵入りのうどんと白いおかゆ、スポーツ飲料、それにプリンを一つ選んだ。配送料を見て一度は注文をやめようとしたが、雨の中を買い物へ出れば、さらに体を冷やしてしまう。凛子は金額を確かめ、注文を確定するボタンを押した。
「今夜は、安く済ませることより、私を寝かせることを選ぼう」
商品が届くまでの間に、凛子は枕元へ水と体温計、スマートフォンの充電器を置いた。ゴミ箱もベッドの近くへ運び、ティッシュの箱が半分以上残っていることを確かめた。子どもの頃、熱を出した妹の枕元には、母親が水差しとリンゴのすりおろしを用意していた。凛子はそれを廊下から見て、自分は風邪をひかないようにしようと思ったことまで思い出した。
インターホンが鳴ると、凛子はマスクを着け、玄関前へ置いてもらった袋を受け取った。卵入りのうどんは容器の蓋まで温かく、だしとネギの匂いが部屋へ広がった。半分ほど食べると汗が額ににじみ、喉の奥にも少し温かさが戻った。残りは冷蔵庫へ入れ、プリンは明日の分として見える場所へ置いた。
食後、凛子は美咲へ短いメッセージを送った。心配をかけたくないと考え、一度は「少し風邪をひきましたが大丈夫です」と書いた。しかし、その文章を消し、三十八度の熱があること、相談窓口へ電話をしたこと、明日の朝も下がらなければ病院へ行くことを正直に書いた。数分後、美咲から電話がかかってきた。
「課長、明日の朝、電話します。返事がなかったら、遠慮なくもう一度かけますからね」
凛子は、そこまでしなくてもよいと言いかけた。自分で病院へ連絡でき、食事も注文できたのだから、一人で対応できると証明したくなった。しかし、一人でできることと、誰かの手を借りてはいけないことは同じではない。凛子は枕元の水を一口飲み、美咲へ答えた。
「ありがとう。朝八時にお願いしてもいいかしら」
電話を切ると、凛子は黒いノートをベッドへ持ってきた。熱のせいで文字が揺れ、最初の行は罫線から大きく下へ外れた。以前のページには、「私は捨てられた」「一度でいいから私を選んでほしかった」と書かれている。その言葉を消さずに残したまま、凛子は新しいページへ今日の出来事を書いた。
「雨の中、私は一人で家へ帰った。玄関の灯りが私を迎えていた。病院へ電話し、食べ物を頼み、水と薬を用意した。美咲さんにも助けてほしいと言えた」
そこまで書くと、凛子はボールペンを置いた。自分を迎えに行くとは、何でも一人でできるようになることではない。具合が悪いと認め、必要な場所へ連絡し、食べられるものを用意し、誰かへ助けを求めることも含まれていた。凛子は最後の一行を、今度は罫線から外れないようゆっくり書いた。
「私は、捨てられた私ではなく、自分を迎えに行った私だった」
書き終えると、凛子は黒いノートを閉じた。熱はまだ下がらず、喉も痛み、部屋には脱いだ服と宅配の袋が散らかったままになっている。それでも今夜の凛子は、玄関の時計を見ながら帰ってこない人を待ってはいなかった。目を閉じる前に、言えるところまで祈ってみることにした。
「エホバ、私はまだ自分のために上手に祈れません。でも今夜は、自分を置き去りにしないでいられました。助けを求めることができたので、朝まで安心して休めるようにしてください」
翌朝、美咲からの電話で目を覚ますと、カーテンの隙間から白い光が差し込んでいた。体温は三十七度六分まで下がり、枕元の水は半分になっている。玄関の灯りは、今度は消してあった。凛子は電話へ出て、寝起きのかすれた声で美咲に答えた。
「おはよう。ちゃんと、朝までここにいたわ」




