第31話 私が選ばなかった人
第31話 私が選ばなかった人
月曜日の朝、凛子は白いブラウスと淡いグレーのブラウスをベッドの上へ並べ、しばらく迷ってから白いほうを選んだ。朝食には食パンを焼くつもりだったが、冷蔵庫に賞味期限の近いご飯が残っていたため、梅干しとゴマを混ぜて小さなおにぎりを作った。雨が降りそうだったので黒いパンプスをやめ、濡れても手入れのしやすいローヒールの靴を履いた。玄関の鍵を閉めたところで、凛子は朝からすでにいくつもの選択をしていたことに気づいた。
電車では空いた端の席を選び、会社へ着くとエレベーターではなく階段を使った。総務課の机には週末に届いた書類が積まれ、給湯室には誰かが洗わずに置いたコーヒーカップが二つ残っている。凛子は自分のカップだけを洗おうとして手を止め、結局三つとも洗って水切り籠へ伏せた。席へ戻ると、部下の田辺が出張精算書の束を抱えて待っていた。
「課長、今週の会議で発表する改善案です。お時間があるときに見ていただけますか」
田辺は薄いブルーのシャツを着ていたが、左の袖口だけが少ししわになっていた。以前なら凛子はそのしわを見て、朝に慌てたのだろうと考えるだけで終わっていた。しかし、真鯛のポワレを前に動けなくなった夜、田辺が何も尋ねず鞄と契約書を持ち、タクシーまで呼んでくれたことを思い出した。凛子は書類を受け取り、今日の午後までに目を通すと答えた。
「ありがとうございます。今回こそ、会議で説明するところまで任せていただけたらと思っています」
田辺はそう付け加えたあと、小さく頭を下げて自分の席へ戻った。凛子は「今回こそ」という言葉が気になり、受け取った書類の表紙へ目を落とした。総務課では来月から経費精算の仕組みを変更する予定で、発表役には入社三年目の佐伯を選ぼうと考えていた。佐伯は話し方が明るく、質問への返答も早いため、人前に出すなら彼女のほうが安心だと思っていた。
昼休み、凛子は自分で作った梅干しのおにぎりと、コンビニで買ったワカメの味噌汁を机へ並べた。味噌汁へ湯を注いでから電話に出たため、席へ戻った頃にはワカメが汁を吸って大きく広がっている。田辺は少し離れた休憩用のテーブルで、アルミホイルに包まれた卵焼きを食べながら、手帳へ何かを書いていた。凛子は割り箸で味噌汁をかき混ぜながら、これまで田辺へ任せた仕事を思い返した。
田辺は資料の数字を確認し、会議室を予約し、発表者が困らないよう質問への回答まで準備していた。それでも会議で話す役目には、いつも佐伯や別の社員を選んできた。田辺は裏方の仕事を正確にできるから、今の役割が合っていると思っていた。だが、それは本人へ確かめた結論ではなく、凛子が一人で決めたことだった。
「課長、梅干し、大きいですね」
視線に気づいた田辺が、凛子のおにぎりを見て言った。凛子は、駅前の商店街で一粒ずつ売っていた梅干しだと説明した。値段を聞いた田辺は、自分なら梅干しより鮭を選ぶと笑った。そんな本筋と関係のない会話を交わしたあと、凛子は手にしていた味噌汁の椀を机へ置いた。
「田辺さん、以前にも発表を希望してくれたことがあったかしら」
田辺は卵焼きを持ったまま、少し考える顔をした。昨年の備品管理の見直しと、今年二月の研修計画でも希望を伝えたと答えた。凛子には、一度目は忙しい時期だった記憶があり、二度目は田辺が人前で話すことに慣れていないと判断した記憶があった。しかし、その判断を本人へ説明した覚えはなかった。
「でも、佐伯さんのほうが向いていますから。僕は準備をするほうが得意だと思われているんですよね」
田辺は笑っていたが、卵焼きの残りをアルミホイルへ戻した。食べ終えるつもりだったはずなのに、包みをきれいに畳み、弁当袋の底へしまってしまう。凛子はその手元を見て、母親から「凛子は強いから大丈夫」と言われた日のことを思い出した。できる人へ同じ役目を与え続けることが、その人を信頼することだと、自分も考えていた。
「私、田辺さんなら裏方を任せても大丈夫だと思っていました」
田辺は、はい、と短く答えた。凛子はそこで言葉を止めず、自分が何を選んできたのかを考えた。佐伯を選ぶたび、田辺には準備だけを任せていた。田辺を仕事のできない人だと思ったことは一度もなかったが、選ばなかった理由を伝えなければ、本人には同じように見えたかもしれない。
「それは信頼していたからです。でも、信頼している人へ同じ仕事ばかり任せて、別の機会を渡さないことがあるのね。田辺さんが何をしたいか、私はきちんと聞いていませんでした」
田辺はすぐには返事をしなかった。休憩室では電子レンジが終了を知らせ、誰かが温めたカレーの匂いが広がっている。凛子は謝ればすぐに納得してもらえるとは考えず、冷めた味噌汁を一口飲んだ。田辺は弁当袋のファスナーを閉めてから、会議で一度、自分の言葉で説明してみたかったと話した。
午後、凛子は田辺の改善案を最初から読んだ。机の端には未処理の伝票が積まれ、読みかけのページへコーヒーの小さな染みがついている。田辺の資料には、経費精算で社員が間違えやすい箇所が具体的にまとめられ、質問への回答案まで添えられていた。話し方を練習すれば、発表を任せられない理由はなかった。
凛子は佐伯を会議室へ呼び、今回の発表を田辺へ任せたいと伝えた。佐伯は少し驚いたあと、自分は操作説明を担当すればよいかと尋ねた。どちらか一人を選び、もう一人を外す必要はない。田辺が制度変更の目的を説明し、佐伯が実際の操作を見せる形にすれば、それぞれの得意なところを生かせると凛子は考えた。
「佐伯さんには、田辺さんの練習にも付き合ってほしいの。あなたの話し方は分かりやすいから、気づいたことを遠慮なく伝えて」
佐伯はうなずき、発表用のポインターは自分が持っていると答えた。以前の凛子なら、一人で最後までできる人を選ぶことが効率的だと考えただろう。しかし、人を育てる仕事では、今できることだけでなく、これからしたいことも聞かなければならない。凛子は二人の予定を確認し、翌日の夕方に練習時間を設けた。
仕事を終えて外へ出ると、朝から残っていた雲がほどけ、夕焼けがビルの窓へ映っていた。凛子はスーパーマーケットへ寄り、夕食用のアジの開きと小松菜、それに三個入りのプリンを買った。一人暮らしに三個は多いと思ったが、特売品は一個入りより安かった。レジ係から長いスプーンを三本入れられ、凛子は一人分でよいと言って二本を返した。
部屋へ戻ると、凛子は紺色のスカートから木綿の部屋着へ着替え、朝に湿っていたタオルを畳んだ。夕食にはアジの開きを焼き、小松菜と油揚げの味噌汁を作った。魚焼きグリルの中でアジの尾が少し焦げ、換気扇を回すとカーテンの裾がゆっくり揺れた。食事を終えた凛子は黒いノートを開き、今日の出来事を書き始めた。
「私は、選ばれなかった人だった。でも、私も誰かを選ばずにいたことがある」
文字にすると、言い訳を足したくなった。悪意があったわけではなく、田辺を軽く見ていたわけでもないと書けば、自分を守ることはできる。しかし、悪意がなくても、相手の希望を聞かないまま役割を決めれば、同じ場所へ置き去りにすることがある。凛子は書きかけた言い訳を消さず、その下へ続きを書いた。
人生では、誰か一人しか選べないこともある。すべての人の願いへ応えることはできず、選ばれなかったことが必ずしも不当な扱いになるわけでもない。それでも、自分の選択によって見えなくなる人がいないか、立ち止まって確かめることはできる。凛子は、明日の練習で田辺の話を最後まで聞こうと思った。
目を閉じると、昨日と同じように祈りの言葉が止まった。拓也のためにも、自分のためにも、まだ滑らかな言葉は出てこない。凛子は立派な表現を探すことをやめ、今日気づいたことだけを伝えた。
「エホバ、私は選ばれなかったことで傷つきました。でも、私も気づかないうちに誰かを選ばず、その人の望みを見落としていたかもしれません。どうか、声の小さい人にも気づけるように助けてください」
祈りを終えて顔を上げると、食卓にはプリンの空いた容器と、使ったスプーンが一本残っていた。凛子はそれを流しへ運び、三個入りの残り二つを冷蔵庫の見える場所へ置いた。明日、誰に一つ渡すかはまだ決めなかった。選ぶ前に、まず相手へ尋ねてみようと思った。




