第30話 選ばれなかったからといって
第30話 選ばれなかったからといって
土曜日の午後、凛子は洗濯物を取り込んでから、白いブラウスと紺色のロングスカートを脱ぎ、薄いグレーの部屋着に着替えた。午前中まで降っていた雨のせいで、タオルの端にはまだ湿り気が残り、仕事用の靴下もつま先だけが冷たい。乾いたものと一緒に戸棚へ入れる気になれず、凛子はタオルを椅子の背へ広げ、扇風機の風が当たるように向きを変えた。昼食に食べた冷やし中華の皿には、汁を吸ったキュウリが二本と、箸で溶ききれなかった練りがらしが残っていた。
食器を洗ったあと、凛子は日曜日の集会で使っているパソコンを開いた。美咲から教えてもらった昔のクリスチャンの文章を読みたかったが、古い言葉遣いと見慣れない漢字が多く、一度では意味をつかめなかった。凛子は老眼鏡を掛け、温かいほうじ茶をパソコンの右側へ置いて、一行ずつ指で追った。途中で窓辺の観葉植物の葉が下を向いていることに気づき、計量カップへ水を入れて鉢へ注いだ。
文章の主題は、謙遜さを試されるときについてだった。自分が望んでいた役割を与えられなかった人や、長く務めてきた立場を別の人へ譲ることになった人が、どのように自分の心を確かめるかが書かれている。会衆の任命について詳しい事情を知らない凛子にも、「選ばれなかった人が何を考えるか」という部分は理解できた。凛子は読み進める手を止め、パソコンの横に置いていた黒いノートへ目を向けた。
「本当は、一度でいいから、私を選んでほしかった」
数日前に自分で書いた文字は、ページの中央で少し右上がりになっていた。拓也が真央のもとへ行くたび、凛子は自分の何が足りないのかを探してきた。料理の味つけを変え、仕事の愚痴を減らし、熱があっても自分で水をくみ、拓也を困らせない妻になろうとした。それでも選ばれないなら、もっと強くなればよいと思っていた。
結婚して二年目の冬、凛子は三十九度を超える熱を出した。灰色のスエットの上へ毛布を巻きつけ、台所まで水を取りに行こうとしたが、足元がふらついて冷蔵庫へ肩をぶつけた。拓也へ電話をかけると、真央が恋人と別れて一人ではいられないため、今夜は帰れないと言われた。少しだけでも帰ってきてほしいと頼んだ凛子に、拓也は困ったように息を吐いた。
「凛子は一人でも大丈夫だろ。お前は強いんだから」
その夜、凛子は床へこぼした水をタオルで拭き、自分で救急相談へ電話をかけた。冷蔵庫には拓也のために作った豚汁が残っていたが、味噌とゴボウの匂いを嗅いだだけで口へ入らなかった。薬を飲むために食パンを半分かじり、毛布を引きずって寝室へ戻った。翌朝、拓也から届いたメッセージは、「真央は落ち着いた」の一文だけだった。
凛子は黒いノートを開き、その夜のことを書こうとした。ところが、熱の高さや拓也の言葉は書けても、「助けてほしかった」と書くところでボールペンが止まった。自分で病院へ連絡できたことも、薬を飲めたことも、朝まで一人で耐えたことも事実だった。しかし、それができたからといって、一人にしてよかったことにはならなかった。
「私は、一人で何でもできる人間ではなかった」
ようやく書いた一文の最後で、青いインクが小さくにじんだ。凛子はボールペンを持ち直し、その下へ「助けてほしい夜もあった」と続けた。立っていられたから強かったのではなく、誰も支えてくれなかったから、倒れないように踏ん張っていただけだった。そう考えると、母親から買い物袋を渡され、泣いている妹の後ろを歩いた九歳の自分まで浮かんできた。
凛子は気持ちを落ち着けようとして、昔の文章へ戻った。そこには、忠実な天使たちが、別の者たちに大きな役割が与えられても、自分たちは軽く扱われたとは考えなかったことが記されていた。人間が将来与えられる立場について、天使たちは自分たちが選ばれなかったと反発するのではなく、その取り決めを喜んだという。凛子は老眼鏡を外し、鼻の付け根を指で押さえた。
「選ばれなかったことと、価値がないことを、同じにしなかったのね」
さらに凛子は、ダビデが王として選ばれたときの記述を開いた。父エッサイの息子たちがサムエルの前を通ったが、選ばれたのは羊の世話をしていた末の息子ダビデだった。七人の兄たちが選ばれなかったからといって、彼らが人間として無価値になったわけではない。与えられる役割と、その人が生きる価値は同じものではなかった。
凛子は聖書の薄い紙を傷つけないよう、指先をそっと離した。もし自分が兄たちの一人だったら、末の弟が選ばれるところをどんな顔で見ただろうと考えた。自分のほうが年上で、経験もあり、父親から先に紹介されたのに、なぜ自分ではないのかと尋ねたくなったかもしれない。凛子は食卓へ残していたほうじ茶を飲み、冷えて強くなった渋みに眉を寄せた。
「選ばれた人を見たとき、自分の価値まで決められたように感じてしまうことがあるのね」
次に思い浮かんだのは、ペテロとパウロのことだった。ペテロはイエスと共に歩み、失敗を重ねながらも、会衆を支える役割を与えられた。一方のパウロは、かつて弟子たちを迫害していたにもかかわらず、後に「選びの器」とされ、諸国民へ良い知らせを伝える大きな務めを与えられた。パウロが選ばれたと知ったとき、ペテロが何を感じたのかは聖書に書かれていなかった。
凛子は、自分がペテロの立場だったらと考えた。最初から従ってきた自分ではなく、後から来た人が遠い土地まで知られるようになれば、素直に喜べただろうか。自分の働きが小さくなったように感じ、比べずにはいられなかったかもしれない。それでも後にペテロは、パウロを競争相手ではなく、愛する兄弟と呼んでいた。
「ほかの人が選ばれても、自分の役割まで消えるわけではないのね」
凛子はそう口にしながらも、拓也が真央を選んだことと、神がダビデやパウロへ役割を与えたことは違うと分かっていた。拓也の選択は正しい取り決めではなく、夫として守るべき妻を後回しにした拓也自身の判断だった。凛子が謙遜であれば我慢できたという話ではなく、拓也の不誠実さを受け入れることが信仰なのでもない。それでも、誰かに選ばれなかったという事実を、自分には愛される価値がないという判決へ変える必要はなかった。
凛子は黒いノートを開き、先ほどの文章の続きを書いた。ボールペンを握る指は何度か止まったが、書き直さず、浮かんだ順番のまま言葉を並べた。窓の外では、雨上がりの道路を宅配便のトラックが通り、隣の部屋から掃除機をかける音が聞こえてきた。凛子は日常の音を聞きながら、最後の一文まで書き終えた。
「私は一人で何でもできる人間ではなかった。助けてほしい夜もあった。でも、選ばれなかったからといって、私に愛される価値がなかったわけではない」
書いた文字を読むと、胸の奥が落ち着かず、凛子はノートを閉じた。自分には愛される価値があると書くことはできても、心からそう信じるところまでは進めなかった。拓也のためにいつか祈れる人になりたいと思った日のことも思い出した。ところが凛子は、拓也のために祈れないだけではなく、自分のためにも祈ったことがないと気づいた。
食事の前には感謝を伝え、集会の仲間や病気の人、災害に遭った人のためには祈ってきた。会社で悩んでいる部下の名前を挙げ、入院した美咲の母親が回復するよう願ったこともある。しかし自分が助けてほしい、自分を支えてほしい、自分を大切に扱ってほしいと祈ろうとすると、言葉が喉の手前で止まった。ほかの人にはもっと困った事情があり、自分のことまで願うのは身勝手なように思えた。
「こんな状態なのに、私は自分のこともまだ祈れない」
声にした途端、凛子は両手を膝の上へ下ろした。祈るために指を組む必要はないと知っているのに、何を願えばよいのか分からなかった。拓也を許せるようにしてくださいと言えば、自分が受けたことを小さく扱うような気がした。強くしてくださいと願えば、また一人で耐えられる人間になろうとしてしまう気がした。
夕方になり、凛子はパソコンを閉じて台所へ立った。冷蔵庫に残っていた豚肉とピーマンを炒め、賞味期限が今日までの絹ごし豆腐をワカメの味噌汁へ入れた。豆腐は一人分には多く、椀の中で白い角がいくつも重なっている。凛子は炊きたてのご飯を茶碗へよそい、食卓の前へ座った。
いつものように食事への感謝を伝えようとして、凛子は目を閉じた。今日読んだ文章のこと、ダビデの兄たちのこと、ペテロとパウロのことは頭に浮かんだが、自分についての言葉は出てこない。味噌汁から立つ湯気が頬へ触れ、換気扇の下では、洗ったフライパンから水滴が一つずつ落ちていた。凛子はしばらく黙ったあと、きれいな祈りを作ることを諦めた。
「エホバ、私は自分のために何を願えばよいのか分かりません。助けてほしいと言うことも、まだうまくできません」
そこで言葉は止まった。自分を愛せるようにしてくださいとも、傷を治してくださいとも続けられなかった。凛子は目を閉じたまま、膝の上で部屋着の布を何度もつまんだ。やがて、今日言えることだけを伝えることにした。
「でも、私がまだ自分のために祈れないことを、あなたは知っていてくださいますよね」
それ以上は何も言わず、凛子は目を開けた。味噌汁の表面には薄い膜が張り始め、炒め物のピーマンも少し冷めていた。祈れなかったことを告げただけで、傷が消えたわけでも、自分の価値を完全に信じられたわけでもない。それでも、助けを求められない自分を隠さずに話したのは、初めてだった。
食後、凛子は椅子の背に掛けていたタオルを手で確かめた。三枚は乾いていたが、一枚だけ中央に湿った部分が残っている。凛子は乾いたものを畳んで戸棚へしまい、湿った一枚だけを椅子へ戻した。乾いていないものを、乾いたことにする必要はなかった。
黒いノートは机の一番下へしまわず、聖書の隣へ置いた。選ばれなかった記憶も、自分のために祈れない自分も、今夜のうちに変える必要はない。凛子は観葉植物の新しい葉へ触れ、部屋の灯りを一つずつ消した。最後に残した小さな明かりの下で、黒いノートの表紙だけが静かに照らされていた。




