↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
31/40

第29話 強い子だったから

第29話 強い子だったから


二度目のカウンセリングの日、凛子は淡いブルーのブラウスに白いパンツを合わせ、薄手のグレーのジャケットを腕へ掛けて駅前のビルへ向かった。朝から湿度が高く、歩道に植えられたアジサイの葉は昨夜の雨を残している。カウンセリングルームへ入る前に化粧室で汗を拭くと、鞄の中から黒いノートが少しだけ見えた。持ってくる必要はないと言われていたが、部屋へ置いて出かけることができなかった。


待合室の加湿器は止められ、代わりに小さな扇風機が棚の上で首を振っていた。以前あったクマの付箋は残り二枚になり、カウンセラーの青いマグカップには温かい紅茶ではなく氷の入った麦茶が注がれている。凛子はソファへ座り、黒いノートを膝の上へ置いたが、表紙を開くことはしなかった。カウンセラーはノートへ一度だけ目を向け、凛子が話し始めるまで待った。


「言われたとおりに書いてみました。でも、人には見せられないことばかりです」


カウンセラーは、それでかまわないと答えた。凛子は真鯛のポワレを見た夜のことや、拓也を許せないと書いたことを話し、最後に書いた一文だけを読み上げた。「本当は、一度でいいから、私を選んでほしかった」と口にすると、膝の上でノートを押さえていた指に力が入った。カウンセラーは少し間を置き、拓也以外の誰かに対しても、同じことを望んだ記憶はないかと尋ねた。


凛子はすぐに思い当たらず、窓際の観葉植物へ目を向けた。丸い葉の一枚には小さな傷があり、その部分だけ薄い茶色になっている。子どもの頃、家の居間にも同じようなゴムの木があり、母親から週に一度、葉を濡れ布巾で拭くよう頼まれていた。凛子は突然、その鉢の横で妹が泣いていた日のことを思い出した。


「あの子は泣けば、母がすぐに抱いていました。私は泣かなかったから、大丈夫だと思われていたんです」


それは凛子が九歳、妹の由衣が五歳の夏だった。母親と三人で商店街へ買い物に出かけ、夕立に遭って、軒先の短いひさしの下で雨宿りをした。由衣は雷の音に驚いて泣き出し、買ったばかりの赤いサンダルを水たまりへ落とした。母親は由衣を抱き上げると、肉や牛乳の入った重い買い物袋を凛子へ渡した。


「凛子はお姉ちゃんだものね。強いから大丈夫よ。由衣のサンダルも持ってくれる?」


凛子は両手で袋を抱え、濡れたサンダルを指へ引っかけた。牛乳瓶が袋の中で脚へぶつかり、腕には細い持ち手が食い込んだが、母親へ返すことはできなかった。家へ着く頃には白いブラウスが雨で透け、靴下の中まで泥水が入っていた。母親は泣きやんだ由衣の髪をタオルで拭きながら、凛子へ笑いかけた。


「助かったわ。凛子は本当に手がかからない子ね」


褒められたことがうれしくて、凛子は赤くなった手のひらを背中へ隠した。自分も雷が怖かったことや、途中で袋を置きたかったことは言わなかった。台所には買ってきたコロッケが並べられ、由衣には衣のきれいな丸いものが選ばれた。凛子は袋の底で少し潰れたコロッケを皿へ載せ、ソースを多めにかけて食べた。


「母は私を嫌っていたわけではありません。私を信用していたんです。私なら我慢できると思っていたんだと思います」


凛子は母親を責める言葉を探したが、浮かんでこなかった。父親の帰りが遅く、母親が一人で家事と子育てをしていたことも知っている。由衣は小さい頃から体が弱く、夜中に熱を出して病院へ連れていかれることも多かった。だからこそ凛子は、母親を困らせないことが自分の役目だと覚えていった。


カウンセラーは、母親に事情があったことと、幼い凛子が我慢していたことは、どちらも同時に事実でよいのだと話した。誰かを悪者にしなければ、自分が受け取れなかったものについて考えてはいけないわけではない。凛子は黒いノートの角を親指でこすりながら、その言葉を頭の中で繰り返した。すると、拓也から何度も言われた言葉が、母親の声と重なって聞こえた。


「お前は強いから大丈夫」


拓也はそう言って、真央のもとへ行った。真央は一人ではいられず、凛子は一人でも立っていられるから、助ける順番が違うのだと説明された。凛子自身もその言葉を受け入れ、熱のある体で水をくみ、薬を探し、毛布を掛けて朝まで耐えた。できたから平気だったのではなく、誰もいないから自分でやるしかなかった。


「私が強かったから、放っておかれたのだと思っていました。弱い人を先に助けるのは仕方がないって、ずっと考えていたんです」


カウンセラーは机の上のティッシュ箱を、凛子の近くへ静かに動かした。凛子はティッシュを取らず、ブラウスの袖口にある小さなボタンを指で何度も触った。九歳の自分は強い子だったのではなく、重い袋を持ったまま立っているしかなかったのだと、ようやく考えることができた。凛子は膝の上の黒いノートを開き、空いているページへ短く書き込んだ。


「強かったのではない。放っておかれても、立っていなければならなかった」


カウンセリングを終えた凛子は、駅前のスーパーマーケットへ寄った。入口には桃が山積みにされ、甘い香りが冷房の風に乗って流れている。二個入りのパックを手に取ると、子どもの頃のお中元を思い出した。親戚から届いた桃は四個しかなく、母親が「凛子は一個で足りるわよね」と言い、由衣の皿へ二個目を載せた。


凛子は一個で足りると答えたが、本当はもう少し食べたかった。由衣が半分残した桃を母親が冷蔵庫へしまい、翌朝には茶色く変色して捨てられていたことまで覚えている。レジの列へ並びながら、凛子は二個入りのパックを籠から出しかけた。しかし、戻す理由が見つからず、そのまま牛乳と食パンの上へ置いた。


「桃、今日は二割引きですよ。少し柔らかいので、早めに召し上がってくださいね」


レジ係の女性に言われ、凛子は今日中に一個食べると答えた。女性は何気なく「残りは明日ですね」と笑い、桃を薄い紙で包んでくれた。凛子はその言葉に返事をしながら、一個目を誰かへ譲る必要も、二個目を残す理由もないことに気づいた。白い買い物袋を腕へ掛けると、牛乳の重さで持ち手が肌へ食い込んだ。


部屋へ戻った凛子は、白いパンツから薄いグレーの部屋着へ着替えた。朝に干した洗濯物を取り込み、タオルの角をそろえて畳んだあと、夕食には鶏肉とピーマンの炒め物を作った。味噌汁には豆腐を入れすぎ、一人分の椀から小さな角がいくつも盛り上がっている。食器を洗ってから、凛子は桃の入ったパックを冷蔵庫から取り出した。


皮へ包丁を入れると、熟した果汁がまな板へ流れた。凛子は桃を八つに切り、白い皿へ一切れずつ丸く並べた。来客用の小さなフォークを出しかけたが、自分がいつも使っている銀色のフォークを選んだ。誰かのために形のよい一切れを残すこともせず、中央に置いた最も甘そうなものから口へ運んだ。


「おいしい」


声にすると、部屋の中で少し大きく聞こえた。凛子は二切れ目を食べ、果汁で濡れた指を布巾ではなく口元へ運んだ。母親や由衣から桃を奪い返したいわけではなく、昔の食卓を責め続けたいわけでもない。ただ、自分が欲しかったものを、自分へ渡してもよいのだと思った。


食べ終えた皿には、桃の果汁だけが薄く残った。凛子は黒いノートを机の引き出しから出し、カウンセリングルームで書いた一文の下へ続きを加えた。字はまだ少し震えていたが、消さずにそのまま残した。窓の外では、雨上がりの道路を走る車の音が続いていた。


「もう、強い子でいなくていい。欲しいと言ってもいい。私が私を、後回しにしなくていい」



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。