第28話 黒いノート
第28話 黒いノート
美咲がコロッケを持ってきた夜から一週間後、凛子は会社を午後から休み、駅前のカウンセリングルームを訪れた。白いブラウスに紺色のフレアスカートを合わせてきたが、待合室の椅子へ座ると、膝の上でスカートの布を何度もつまんでしまう。低い棚には観葉植物と女性誌が並び、加湿器からはラベンダーに似た香りが漂っていた。受付でもらった問診票には「現在、困っていること」という欄があり、凛子はしばらく考えてから、「昔のことが急に戻ってくる」と書いた。
担当のカウンセラーは五十代くらいの女性で、薄いグリーンのカーディガンを着ていた。机の端には青いマグカップが置かれ、その横に小さなクマの付箋が何枚も貼られている。凛子は真鯛のポワレを見た瞬間に息ができなくなったことや、夜中に玄関の時計を何度も確認したことを話した。声を乱さず説明できたことに安心していると、カウンセラーは問診票へ目を落としてから尋ねた。
「そのとき、頭の中にはどんな言葉が浮かびましたか」
凛子は、うまく答えられなかった。拓也の声やレストランの雨音は思い出せても、そのとき自分が何を考えていたかまでは分からない。何度も後回しにされたことや、助けを求めても来てもらえなかったことは話せたが、口へ出す前に整った言葉へ直してしまう。凛子はブラウスの袖口をそろえ、慎重に答えた。
「妻として、大切にされていなかったのだと思います。今は離婚して、生活も落ち着いていますから、もう過ぎたことのはずなんです」
カウンセラーは、過ぎたこととして話せる部分と、まだ言葉になっていない部分があるのかもしれないと答えた。誰かに見せるためではなく、頭へ浮かんだことをそのままノートへ書く方法を勧め、文法や字の美しさも気にしなくてよいと説明した。凛子は仕事で報告書を書くときのように、起きた出来事を時系列でまとめればよいのかと尋ねた。カウンセラーは少し笑い、今度は報告書とは反対の書き方をしてみましょうと言った。
「正しい文章にしなくていいんです。人に見せられないと思う言葉ほど、直さずに書いてみてください」
帰り道、凛子は駅前の文房具店へ寄った。棚には花柄や動物の絵が入ったノートもあったが、どれも今から書こうとしている内容には似合わないように見える。迷った末に選んだのは、表紙に模様も文字もない黒いノートだった。レジの横に並んでいた消しゴムつきの鉛筆も手に取ったが、消してはいけないような気がして、青いボールペンを一本だけ買った。
「こちら、仕事用ですか。領収書はお入り用でしょうか」
若い店員に尋ねられ、凛子は反射的に領収書をもらおうとした。会社で文房具を買う癖が抜けておらず、宛名まで言いかけてから、これは自分のための買い物だと思い出した。凛子は黒いノートを紙袋へ入れてもらい、領収書はいらないと答えた。店を出ると、八百屋の前で特売の大根を買い、黒いノートと一緒に鞄へ入らないため、白いビニール袋をぶら下げて帰った。
その夜、凛子は夕食の支度を終えてから、黒いノートを食卓へ置いた。献立はアジの開きと大根おろし、豆腐とワカメの味噌汁、それにキュウリの浅漬けだった。魚焼きグリルへアジを入れ、ご飯が炊き上がるまでの時間を使って書くつもりだった。凛子は青いボールペンのキャップを外し、一行目へ小さく日付を書いた。
「拓也を許せない」
文字にすると、それだけでは足りない気がした。凛子は次の行へ、「真央も許せない」と書き、その下へ二本の線を引いた。丁寧な字を崩さないように書いているうちに、会社の議事録を作っているような気分になった。こんな書き方では違うと思い、カウンセラーの言葉を思い出して、頭に浮かんだことを直さずに続けた。
「どうして私ではなかったの。私は妻だった。熱が三十九度もあった。水を持ってきてほしいと言った。真央は一人で眠るのが怖いと言っただけだった。それでも、あなたは真央のところへ行った」
ボールペンを握る指へ力が入り、次第に文字の大きさがそろわなくなった。凛子は拓也の言い分を考え、真央にも事情があったのかもしれないと書きかけたが、その文章を何度も塗りつぶした。今まで相手の事情ばかりを先に考え、自分の言葉を後ろへ追いやってきたことに気づいた。黒いインクで汚れた行の下へ、凛子はさらに大きな字を書いた。
「私の熱より真央の涙のほうが大事だったの。私が泣かなかったからなの。私が我慢したからなの。私も食器を投げて、夜中に電話して、怖いと叫べば、私を選んでくれたの」
書いている途中で、焦げた匂いが鼻へ届いた。凛子は椅子を倒しそうになりながら立ち上がり、魚焼きグリルの火を止めた。アジの皮は黒く焦げ、尾の先から細い煙が上がっている。換気扇を強にし、窓を開けると、隣の部屋からテレビの笑い声が風に乗って聞こえてきた。
「またやってしまった」
焦げた皮を箸で剥がすと、身の半分ほどは食べられそうだった。大根おろしを多めに載せれば味もごまかせると考えたが、食卓へ戻る前に黒いノートが目に入った。乱れた文字や何度も重ねた線は、見慣れた自分の字とは思えなかった。凛子は急いでノートを閉じ、流しの横にあった新聞紙へ包んだ。
こんな言葉を誰かに読まれたら、拓也より自分のほうが醜いと思われるかもしれない。凛子は新聞紙に包んだノートを持ち、玄関脇のゴミ袋を開けた。中には朝に捨てたコーヒーのフィルターと、大根の皮、空になった豆腐の容器が入っている。ノートをその上へ置こうとしたとき、カウンセラーの声が頭へ戻ってきた。
「人に見せられないと思う言葉ほど、直さずに書いてみてください」
凛子はゴミ袋の前で立ち止まった。黒いノートは誰にも見せる必要がなく、立派な妻にも、冷静な課長にも、物分かりのよい大人にも見せるためのものではない。口へ出さなかった言葉まで整え続けたから、真鯛の匂い一つで体が代わりに叫んだのかもしれない。凛子は新聞紙を外し、ノートを胸へ抱えて食卓へ戻った。
冷めた味噌汁の表面には薄い膜が張り、焦げたアジからはまだ苦い匂いがしていた。凛子は大根おろしをたっぷり載せ、黒くなった皮を避けながら身を食べた。うまく焼けなかった魚でも、食べられるところまで捨てる必要はない。凛子はノートの表紙へ手を置き、小さく口にした。
「誰にも見せないんだから、きれいに書かなくていいのよね」
食事を終えると、凛子は黒いノートを机の一番下の引き出しへしまった。古い通帳や、使わなくなった拓也名義のポイントカードを処分したあとに空いていた場所だった。鍵は掛けず、その上へ青いボールペンを置いた。翌朝、白いブラウスへアイロンを掛け、トーストとゆで卵を食べてから出勤する前に、凛子は引き出しをもう一度開けた。
昨日の文字を読み返すと、胸元が落ち着かず、ブラウスのボタンを一つ掛け違えた。凛子は鏡の前でボタンを直し、黒いノートの新しいページを開いた。書く時間は五分しかなかったが、今日は立派な文章を作ろうとはしなかった。青いボールペンを握り、最初に浮かんだ一文をそのまま書いた。
「本当は、一度でいいから、私を選んでほしかった」




