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第27話 泣いてよかった夜

第27話 泣いてよかった夜


インターホンが鳴ったのは、凛子がベランダから湿ったタオルを取り込んでいるときだった。画面には、紺色のレインコートを着た美咲が、白いビニール袋を両手で抱えて立っている。凛子は床へ落とした黒いジャケットを拾い、丸めたままソファの端へ押し込んでから玄関を開けた。外では再び細い雨が降り始め、美咲の前髪には小さな水滴がいくつもついていた。


「急に押しかけてすみません。電話でもよかったんですけど、課長の『少しだけ』は信用できないので来ました」


美咲はそう言って靴を脱ぎ、濡れたレインコートを玄関脇のフックへ掛けた。差し出した袋から漂ってきたのは、高価な菓子折りの甘い香りではなく、揚げ油と温かいジャガイモの匂いだった。商店街の肉屋で買ったコロッケが四つと、総菜店の千切りキャベツ、それに小さな容器へ入ったポテトサラダが出てきた。袋の底には、割り箸と一緒に、なぜかカニの絵が描かれた子ども用の小さなふりかけまで入っていた。


「店のおばさんが、おまけにくれました。私が子どもに見えたわけではないと思います」


凛子は笑おうとしたが、口元がうまく動かなかった。美咲は何も言わず、流しに伏せてあった皿を二枚取り、コロッケと千切りキャベツを半分ずつ盛りつけた。昼に使った味噌汁の椀が洗われずに残っており、表面には乾いたワカメが一枚張りついている。いつもなら人が来る前に片づける凛子だったが、その日は椀を隠すこともできず、椅子へ腰を下ろした。


食卓の上には、飲みかけの麦茶と日曜日の集会で使ったノートが置かれていた。美咲はノートを勝手に閉じず、空いている場所へ紙袋から出したソースを置いた。凛子は赤い蓋を回そうとしたが、指に力が入らず、何度つかみ直しても滑ってしまう。結局、美咲が瓶を受け取り、蓋の周りへ布巾を巻いて開けた。


「この蓋、固かったですよ。課長の握力の問題じゃありません」


凛子はうなずき、コロッケへソースをかけた。茶色い液体が一度に多く出て、千切りキャベツの下まで広がっていく。普段なら皿の縁をティッシュで拭くところだったが、そのまま箸でコロッケを割った。衣から湯気は出ず、中のジャガイモもすでに冷えていた。


「真鯛のポワレが出てきたの」


美咲はポテトサラダの容器を開けながら、凛子の次の言葉を待った。凛子は化粧室へ逃げ込んだことや、どこにいるのか分からなくなったことを、一つずつ話した。田辺が取引先へ説明し、タクシーまで呼んでくれたことを話す頃には、割ったコロッケを一口も食べていないことへ気づいた。美咲はコロッケの半分を箸で持ち上げ、ソースのかかっていないところへ少しだけ塩を振った。


「一年も前なのに、あの夜へ戻ったみたいだった。拓也が『料理が冷める前に戻る』と言った声まで聞こえたの」


凛子はテーブルの木目を指でなぞった。離婚届を提出したのは自分であり、弁護士を通して拓也との連絡を断ったのも自分だった。拓也が復縁を求めても応じず、新しい部屋を借り、自分の荷物だけを運び出した。だから、捨てたのは自分のほうだと、この一年間ずっと考えてきた。


「私は自分で離婚を選んだの。拓也を捨てたのは私よ。それなのに、どうして今さら、あの人に置いていかれた夜なんか思い出すの」


美咲は答えず、冷めたコロッケを箸でさらに半分へ割った。衣が皿の上へ散らばり、一つが千切りキャベツの山へ引っかかった。美咲はそれを指で拾おうとしてソースを爪につけ、慌てて紙ナプキンで拭いた。そんな普段と変わらない手の動きを見ているうちに、凛子の喉の奥が狭くなった。


「結婚記念日だけじゃないの。私が高熱を出した夜も、真央から電話が来たら拓也は出ていった。仕事で失敗して眠れなかった夜も、私の話は五分で切り上げたのに、真央の相談には朝まで付き合った」


凛子は、箸を皿の上へ置いた。頭の中には、濡れた傘を玄関へ立てかけたまま出ていく拓也の背中や、冷蔵庫に残された一人分のプリンが浮かんでいた。母親の誕生日に二人で食べる予定だったイチゴのケーキも、真央の引っ越しを手伝うために拓也が来ず、凛子は翌朝まで一人で食べ続けた。クリームが乾いて硬くなったケーキの端まで思い出したところで、凛子は唇をかんだ。


「私が困っても、あの人は来なかった。助けてと言っても、私なら大丈夫だと言われた。でも、真央が怖いと言えば、何を置いてでも駆けつけた」


美咲は励まそうとせず、拓也を悪く言うこともしなかった。コロッケを一口食べ、冷めていますね、とも言わずにゆっくりのみ込んだ。凛子は自分の皿へ視線を落とし、ソースに沈んだ千切りキャベツを一本ずつ箸で引き上げた。胸の奥へ押し込んできた言葉が、ようやく形を持ち始めていた。


「私は、選ばれなかったの」


口にした途端、凛子の顎が小さく震えた。拓也と離婚したことよりも、真央に負けたことよりも、妻だった自分が何度助けを求めても選んでもらえなかったことが残っていた。結婚指輪も、同じ名字も、二人で選んだ食器も、拓也が振り向く理由にはならなかった。凛子は膝の上で両手を握り、その爪が手のひらへ食い込んでいることにも気づかなかった。


「私は、捨てられたの。離婚した日に捨てられたんじゃない。結婚している間に、何度も何度も捨てられていたの」


美咲が椅子から立ち、流しの横に置いてあった箱からティッシュを取った。凛子は受け取ろうとしたが、腕を上げる前に涙がテーブルへ落ちた。一滴目は日曜日の集会で書いたノートの端を濡らし、二滴目は「過去を手放す」という文字の上へ落ちた。凛子は慌ててページを閉じようとしたが、美咲がティッシュを重ねて水分だけをそっと吸い取った。


「手放せていない。私、何も乗り越えていなかった」


凛子は椅子の背へ体を預け、両手で顔を覆った。声を抑えようとすると息が詰まり、肩が大きく揺れた。美咲は背中をさすらず、もう泣かなくていいとも言わず、向かいの椅子へ座ったままそこにいた。時計の秒針と冷蔵庫の運転音が、凛子の途切れた声の間で何度も聞こえた。


「課長は、乗り越えたふりをしていたわけではありません。あのときは、生きるために先へ進むしかなかったんだと思います」


凛子は顔を覆ったまま、美咲の言葉を聞いた。弁護士へ電話をし、部屋を探し、住所変更の手続きをし、仕事へ通い続けた日々には、傷を確かめる時間などなかった。立ち止まれば拓也のもとへ戻ってしまいそうで、前だけを見て歩いた。その歩き方が間違っていたのではなく、今になってようやく、足元を見る余裕ができたのかもしれなかった。


「今、泣けたなら、それでいいんじゃないでしょうか。あの頃の課長は、泣く時間まで後回しにしていたんですから」


その言葉を聞き、凛子は再び声を上げた。美咲がテーブルの端へ置いたティッシュはすぐになくなり、最後には取り込んだばかりの湿ったタオルを口元へ押し当てた。美咲は冷めたコロッケを少しずつ食べながら、ときどき凛子の空になった麦茶のコップへ水を足した。何時までいるとも、いつ帰るとも言わなかった。


一時間ほどたつと、凛子の声は次第に小さくなった。目元は腫れ、鼻の先は赤くなり、アイボリー色のワンピースの胸元には涙の跡が残っている。テーブルの上のコロッケは完全に冷え、千切りキャベツもしんなりしていた。凛子は湿ったタオルを膝へ置き、ようやく箸を持った。


「冷たいわね」


美咲は空になった自分の皿を見て、少し笑った。電子レンジで温め直しましょうかと尋ねたが、凛子は首を横へ振った。冷えたコロッケをひと口食べると、ソースの酸味とジャガイモの甘さがきちんと分かった。凛子は鼻をすすりながら、もう一口だけ食べた。


「今日は、冷たいままでいい。これでも食べられるから」


美咲はうなずき、子ども用のふりかけを開けて、残っていた白いご飯へ半分ずつかけた。袋に描かれた赤いカニが、湯気の消えた茶碗の横で笑っている。凛子は、こんな夜にカニのふりかけを食べたことを、いつか本筋とは関係のない出来事として思い出すのだろうと思った。けれど今夜だけは、泣いている自分のそばで誰かがコロッケを食べ、帰らずにいてくれたことが、何よりも確かなことだった。


「美咲さん、ありがとう。私、今日は泣いてよかったのね」


美咲はすぐに返事をせず、ふりかけの袋を小さく畳んで皿の端へ置いた。窓の外では雨がやみ、ベランダの手すりから落ちた水滴が、暗い床へ小さな音を立てている。美咲は凛子の顔を見て、ゆっくりとうなずいた。


「はい。今夜は、それでよかったんです」



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