↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
28/40

第26話 帰ってこない人

第26話 帰ってこない人


美咲へメッセージを送ったあと、凛子は湿ったタオルを椅子の背へ掛けた。取り込んだ洗濯物の中には、白いブラウスと薄いグレーの部屋着、それに片方だけ裏返った靴下が混じっている。いつもなら縫い目まで確かめて畳むのに、その夜は籠へ入れたまま寝室の隅へ置いた。美咲から「今なら電話できます」と返事が届いたが、凛子は時計を見て、もう遅いから明日にすると答えた。


黒いジャケットをハンガーへ掛け、白いブラウスを脱ぐと、背中へ汗が冷たく張りついていた。凛子は薄い水色のパジャマに着替え、洗面所で化粧を落としたが、口紅だけが唇の端に少し残った。冷蔵庫を開けると、キャベツとニンジンと玉ネギを煮込んだ野菜スープが鍋に入っている。食べるつもりで火にかけたものの、湯気に混じった玉ネギの甘い匂いを嗅いだだけで喉が狭くなり、凛子は火を止めた。


「明日の朝に食べればいいわ」


誰もいない台所で口にすると、自分の声が冷蔵庫の低い運転音に重なった。凛子は鍋の蓋を戻し、麦茶を半分だけ飲んで寝室へ入った。枕元には、日曜日の集会で使う聖書と、読みかけの旅行雑誌が重ねて置かれている。温泉地の特集ページには付箋を貼っていたが、一人で行くか美咲を誘うか決められず、二か月ほど同じところで止まっていた。


眠りについたのが何時だったのか、凛子には分からなかった。次に目を開けたとき、部屋は暗く、枕元のデジタル時計は午前二時十三分を表示している。廊下の向こうでエレベーターの到着音が鳴り、続いて誰かの靴音が聞こえた。凛子は布団を跳ねのけ、パジャマの裾を踏みそうになりながら玄関へ向かった。


壁に掛けた丸い時計の針は、二時十五分を指していた。凛子は時計を見上げ、次にドアの鍵を見て、それからもう一度時計を確認した。廊下の足音は部屋の前を通り過ぎ、離れた場所で別のドアが閉まった。凛子は冷たい床の上へ裸足で立ったまま、胸元を押さえた。


「違う。ここへ帰ってくる人はいない」


口にしてから、その言葉の意味が胸の中へ落ちてくるまで、少し時間がかかった。拓也と暮らしていた頃、深夜にエレベーターが止まるたび、凛子は玄関の時計を確認していた。午前零時なら仕事、午前一時なら飲み会、午前二時を過ぎていれば真央のところだと、頼まれてもいない理由を自分で作って待っていた。ドアが開けば責めないように笑い、水を用意し、翌朝に食べる味噌汁の鍋へ蓋をしていた。


凛子は寝室へ戻ったが、布団へ入っても足音が耳から離れなかった。目を閉じると、拓也拓也が鍵を回す音や、酒の匂いをまとった上着をソファへ放る姿が浮かんでくる。眠れないまま寝返りを打ち、午前二時四十分、三時十分、三時四十七分と何度も時計を見た。枕元の水を飲もうとしてコップを倒し、旅行雑誌の角を濡らした。


「もう待っていない。私は、誰も待っていないの」


凛子は濡れたページをティッシュで押さえながら、同じ言葉を繰り返した。ところが、廊下で物音がするたびに手が止まり、顔は玄関の方向を向いた。頭では今の部屋に拓也が来るはずはないと分かっている。それでも体だけが、一年前の夜を続けていた。


午前四時を過ぎると、雨が窓を細かく打ち始めた。凛子は眠ることを諦め、ベッドから出て、椅子に掛けたタオルを洗面所へ運んだ。湿った布を洗濯機へ入れ、洗剤を量ろうとしたが、キャップから少しこぼして床へ青い液を垂らした。雑巾で拭いたあとも匂いが残っている気がして、同じ場所を三度水拭きした。


玄関の床には、会食で履いた黒いヒールの跡が薄く残っていた。凛子は靴を下駄箱へしまい、ほうきを出して小さな砂を集めた。砂を捨てても床のくすみが気になり、今度は濡らした布でタイルを一枚ずつ拭き始めた。端から端まで拭き終えた頃には、空が薄い灰色に変わっていた。


朝六時半、凛子は昨夜食べられなかった野菜スープを温めた。鍋の底でキャベツが柔らかく煮崩れ、ニンジンはスプーンで押すだけで割れた。食パンを一枚焼いたが、トースターから出すのを忘れ、端が黒く焦げている。凛子は焦げた部分をバターナイフで削り、冷めたスープへ浸して半分だけ食べた。


会社へ休みの連絡を入れたあと、凛子は再び掃除を始めた。寝室の床を掃き、棚の上の埃を拭き、昨日まで気にならなかった窓の指紋まで磨いた。洗面所の鏡を拭いていると、目の下に濃い影ができた自分の顔が映った。凛子は濡れた前髪を耳へ掛け、鏡の中の自分へ言い聞かせた。


「少し寝不足なだけ。今日は休めば元に戻るから」


午前九時を過ぎた頃、美咲から電話がかかってきた。凛子は掃除機を止め、薄いグレーの部屋着の膝についた埃を手で払ってから応答した。受話口の向こうからは、駅の案内放送と人の歩く音が聞こえる。美咲は出勤途中らしく、いつもより少し早口だった。


「課長、昨日の夜は眠れましたか」


凛子は、開けたままになっていたカーテンを閉めた。窓の外はすでに明るく、通学する子どもたちが色の違う傘を並べて歩いている。正直に話せば美咲を困らせると思い、凛子は掃除機のコードを指へ巻きつけながら答えた。


「大丈夫よ。少し寝不足なだけ。昨日は会食で疲れたのね」


美咲はすぐには返事をしなかった。凛子は沈黙を埋めるため、これから洗濯をして、午後には野菜を買いに行くつもりだと続けた。話しながら掃除機のスイッチを入れ、さきほど拭いたばかりの玄関へ再びノズルを滑らせた。受話口から、美咲の低い声が聞こえた。


「課長、どこを掃除しているんですか」


凛子は掃除機を止めた。玄関のタイルはすでに乾き、砂も髪の毛も一つも落ちていない。それでも隅に灰色の点が見えた気がして、凛子はノズルの先を同じ場所へ戻した。美咲は返事を待たず、もう一度尋ねた。


「さっきから、ずっと同じところを掃除していませんか」


凛子はコードを強く握った。拓也の帰りを待っていた夜も、何かをしていなければ時計を見てしまうため、深夜に台所の床やコンロを何度も磨いていた。汚れがなくなっても手を止められず、換気扇の油を爪でこすったこともある。その癖が一年ぶりに戻っていることを、美咲の言葉で初めて知った。


「玄関が少し汚れていたの。昨日、雨だったから」


美咲は否定も追及もせず、電車へ乗るのでいったん電話を切ると告げた。凛子が安堵して掃除機を片づけようとすると、美咲は最後にもう一つだけ言葉を続けた。駅の発車ベルに重なって聞き取りにくかったが、その声には迷いがなかった。


「今日、仕事が終わったら課長の部屋へ行きます。夕飯は買っていくので、何も作らなくていいです」


凛子は断ろうとした。冷蔵庫には野菜スープがあり、部屋も人を迎えられるくらい片づいている。けれど、美咲が来なくていい理由を考えている間にも、視線は玄関の時計へ向いていた。時計の針は九時十八分を指しており、今夜はその針を一人で見続けたくなかった。


「それなら、コーヒーくらい用意しておくわ」


美咲は、コーヒーではなく麦茶でいいと答えた。帰りに商店街へ寄るので、食べられないものがあれば連絡してくださいと言い、電話を切った。凛子はスマートフォンをテーブルへ置き、掃除機のコードを巻き直した。最初はきれいな輪にならず、三度目でようやくいつもの形へ収まった。


昼を過ぎると、雨はやみ、雲の隙間から弱い日が差し込んだ。洗濯機から取り出したタオルをベランダへ干しながら、凛子は美咲が来る時刻を考えた。帰りを待つことと、来てくれる人を待つことは同じではないはずなのに、胸の中ではまだ区別がつかなかった。洗濯ばさみを一つ余分につけ、風で飛ばないことを確かめたところで、凛子は誰もいない部屋へ小さく口にした。


「今日は、帰ってこない人を待つんじゃない。来ると言ってくれた人を待つの」



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。