第25話 かさぶたの下
『見捨てられた夜は、終わっていなかった』
――一人で生きられるようになった私を、一年前の記憶が追いかけてきた――
第25話 かさぶたの下
離婚から一年が過ぎた日曜日の朝、凛子は目覚まし時計が鳴る前に目を覚ました。薄い水色のパジャマのままカーテンを開けると、梅雨の晴れ間の光がベランダに差し込み、昨夜干した白いタオルの端を明るく照らしている。一人分の洗濯物は少なく、タオル二枚と下着、それに仕事用のブラウスが一枚あるだけだった。以前は物干しざおを半分しか使わないことが気になったが、今では風通しがよくて乾きやすいと思えるようになっていた。
朝食には六枚切りの食パンを一枚焼き、ハムエッグとキュウリの薄切りを皿へ載せた。冷蔵庫に残っていたイチゴジャムは瓶の底で固くなっており、凛子は長いスプーンで端まできれいにすくった。食後にコーヒーカップを洗い、アイボリー色のワンピースへ着替えると、パソコンを開いて日曜日の集会へZoomで参加した。画面に現れた美咲が、凛子の後ろに置かれた観葉植物を見つけて笑った。
「課長、その子、また葉が増えましたね。最初に見たときは三枚しかなかったのに」
凛子も振り返り、濃い緑色の葉を数えた。拓也と暮らしていた部屋から持ち出した鉢だったが、今の部屋へ移ってから新しい葉が五枚も出ている。植え替えたときに土を床へこぼし、掃除機の細いノズルで三十分も吸い続けたことを思い出した。集会が始まる直前、凛子はマイクをオンにして美咲へ答えた。
「今は八枚よ。私より、この子のほうが新しい部屋に慣れるのが早かったみたい」
月曜日になると、凛子は紺色のパンツスーツを着て会社へ向かった。総務課の机には部下が置いた出張精算書が積まれ、右上の角がそろっていないものを見ると、凛子は話を聞きながら無意識に指で整えた。離婚した直後は廊下を歩くだけで誰かに事情を知られているような気がしたが、今では若い社員から住宅手当や育児休暇について相談される立場になっている。昼休みには自分で作った鮭のおにぎりを食べ、給湯室で味噌汁のカップを洗っていると、部下の田辺が顔を出した。
「課長、木曜日の会食ですけど、先方は魚料理の店を希望しているそうです。場所は丸の内で大丈夫ですか」
凛子は蛇口を閉め、濡れた指先をハンカチで拭いた。丸の内には結婚記念日に拓也と訪れたレストランもあったが、店名までは同じではない。もう一年も前のことであり、仕事の会食を断る理由にはならないと思った。凛子は洗ったカップを水切り籠へ伏せ、田辺が持っていた予定表へ目を落とした。
「大丈夫よ。先方の部長は薄味を好まれるから、お店には伝えておいて」
木曜日の夕方、凛子は白いブラウスの襟を鏡で整え、仕事用の黒いジャケットを羽織った。昼間に降った雨は上がっていたが、歩道には水たまりが残り、タクシーが通るたびに街灯の光が細かく揺れている。会食の店は高層ビルの二十六階にあり、窓からは雨に濡れた東京の夜景が見渡せた。案内された席へ着くと、田辺が椅子を引きながら小声で話しかけた。
「こういう店、緊張しますね。フォークを外側から使うのか内側から使うのか、毎回忘れるんですよ」
凛子は田辺の前に並んだ三本のフォークを見て、口元を緩めた。結婚記念日の夜、拓也も同じことを言い、凛子の手元をこっそりまねしていた。その記憶はすぐに遠のき、凛子は取引先へ挨拶をして、持参した資料をテーブルの脇へ置いた。前菜の鴨肉とオレンジのサラダを食べ、白ワインを一口だけ飲む頃には、仕事の話も順調に進んでいた。
「それでは、次の四半期から新しい契約内容で進めましょう」
先方の部長がそう言うと、田辺は安堵した様子で水を飲んだ。凛子は契約の条件をもう一度確認し、手帳の余白へ数字を書き込んだ。万年筆の先から少し多く出たインクが紙へ丸い染みを作り、凛子はナプキンの端で慌てて押さえた。給仕係が次の料理を運んできたのは、そのときだった。
白い大皿の中央に、皮目をこんがりと焼いた真鯛が載っていた。周囲には黄色と緑色のソースが描かれ、熱を含んだ香草バターの匂いが凛子の顔へ届いた。食器が重なる小さな音を聞いた瞬間、目の前のテーブルが遠ざかり、窓を打つ雨音だけが急にはっきりと聞こえた。凛子はフォークを持とうとしたが、指が硬くなり、銀色の柄をつかむことができなかった。
「料理、冷める前に戻るって」
拓也の声が、すぐ隣から聞こえた気がした。凛子は顔を上げたが、向かいにいるのは取引先の部長であり、隣では田辺が真鯛の皮をナイフで切っている。それでも胸の奥では何かが激しく鳴り、ブラウスの襟が首へ張りついて、息を吸っても空気が入ってこなかった。田辺が異変に気づき、ナイフとフォークを置いた。
「課長、顔色が悪いです。少し外へ出ますか」
凛子は返事をしようとしたが、喉から声が出なかった。ナプキンを膝から落としたまま椅子を引き、取引先へ頭を下げることもできずに化粧室へ向かった。磨かれた廊下の床へ細いヒールの音が響き、その音まで結婚記念日の夜と同じに聞こえた。化粧室へ入ると、凛子は一番奥の個室へ駆け込み、鍵を掛けて便座の蓋へ腰を下ろした。
目を閉じても、冷えた真鯛のポワレが見えた。スマートフォンに届いた「今日は戻れない」という短い文章や、酒の匂いをまとって帰宅した拓也の顔まで、昨日の出来事のように浮かんでくる。凛子は黒いジャケットの胸元をつかみ、ゆっくり息を吐こうとしたが、歯が細かく鳴ってうまくできなかった。個室の外で誰かが化粧ポーチを落とし、「またファンデーションが割れた」と連れの女性にこぼす声を聞いても、自分がどこにいるのか分からなかった。
「私は……会社の会食に来ているの。今日は結婚記念日じゃない」
何度口にしても、体は言葉を信じてくれなかった。凛子は手のひらを胸へ当て、カウンセリングの記事で読んだ方法を思い出そうとした。目に見えるものを五つ数えるのだったか、触れられるものを五つ数えるのだったか、順番さえ曖昧だった。それでも灰色の床、銀色の鍵、黒い靴、ベージュの壁、膝に置いた自分の手を一つずつ見ていくうちに、やがて足の裏へ硬い床の感触が戻ってきた。
個室の外から、田辺の遠慮がちな声が聞こえた。女性社員に様子を見てもらうべきか迷い、化粧室の入口から呼びかけているらしい。凛子はハンカチで額の汗を押さえ、何度か息を吐いてから扉を開けた。鏡に映った顔は白く、丁寧に塗った口紅だけが不自然なほど赤く残っていた。
「課長、大丈夫ですか。先方には、急に体調が悪くなったと伝えました」
田辺は化粧室の外で、凛子の鞄と落としたナプキンを抱えていた。契約書まで持って出てきたらしく、黒いファイルの角から紙が一枚はみ出している。凛子はいつもの癖でその紙をそろえようとしたが、指先はまだ細かく震えていた。田辺は何も質問せず、凛子の代わりにタクシーを呼んだ。
帰宅した凛子は、玄関でヒールを脱ぎ、黒いジャケットを床へ落とした。朝に干したタオルは取り込まないまま湿気を吸い、ベランダで重そうに垂れ下がっている。冷蔵庫には昨日作ったナスの煮びたしと豆腐が残っていたが、食欲はなく、凛子は麦茶だけをコップへ注いだ。テーブルには日曜日の集会で使ったノートが開いたままになっており、ページの端に「過去を手放す」と書かれていた。
凛子は椅子へ座り、濡れた手でコップを握った。一人暮らしに慣れ、仕事も続け、拓也のためにいつか祈れる人になりたいとまで思えるようになったのだから、もう大丈夫だと考えていた。しかし、頭が終わったと判断した出来事を、体はまだ終わったことにしていなかった。凛子は観葉植物の新しい葉へ目を向けたが、今夜は触れることができず、代わりに美咲へ短いメッセージを送った。
「今夜、昔のことが突然戻ってきました。少しだけ、話を聞いてもらえますか」
送信すると、すぐに既読がついた。凛子は返事を待つ間にベランダへ出て、湿ったタオルを一枚ずつ取り込んだ。乾いていたはずの布は夜露を含み、腕へ冷たく触れた。一年前にできた傷は消えたのではなく、表面へ薄いかさぶたができていただけなのだと、凛子はようやく気づいた。




