第24話 祈れる人になりたい
第24話 祈れる人になりたい
日曜日の朝、空には薄い雲が広がり、窓を開けると少しだけ涼しい風が部屋を通り抜けた。凛子はアイボリー色のワンピースに淡いベージュのカーディガンを羽織り、鏡の前で髪を整えると、小さな観葉植物へ水をやった。朝食は焼きたてのロールパンとスクランブルエッグ、それにトマトとレタスのサラダをゆっくり食べ、飲み終えたコーヒーカップを洗ってから玄関の鍵を閉めた。
会社の同僚だった美咲に誘われ、その日は初めて日曜日のクリスチャンの集会へ足を運ぶことになっていた。住宅街の中にある小さな会場は、庭先の花がきれいに手入れされ、玄関には季節の花が飾られている。受付の人は穏やかな笑顔で「おはようございます」と声を掛け、誰も凛子の過去を尋ねることなく、温かいお茶を勧めてくれた。その自然な空気に触れ、凛子は肩へ入っていた力が少しだけ抜けていくのを感じた。
講堂には木の椅子が整然と並び、窓から差し込む柔らかな光が床へ細長く伸びていた。隣へ座った年配の女性は、小さな聖書を大切そうに膝へ置き、始まる前にハンカチで眼鏡を丁寧に拭いている。どこからか焼きたてのクッキーの甘い香りが漂い、子どもたちの小さな笑い声も聞こえてきた。凛子は静かに椅子へ腰掛け、両手を膝の上へ重ねた。
やがて公開講演が始まった。講演者は会場をゆっくり見渡したあと、穏やかな声で最初の言葉を口にした。
「ざまぁもいいけど、そのざまぁしたい人のために祈れたら、もっと素敵だと思いませんか。」
その一言が耳へ届いた瞬間、凛子は胸の奥で何かがほどけるような感覚を覚えた。自分でも理由は分からなかった。ただ、視界が少しずつにじみ、膝の上へ置いた手に一滴、また一滴と涙が落ちていく。慌ててハンカチを取り出したが、拭いても拭いても次の涙が静かにあふれてきた。
これまでの一年が頭の中をゆっくり通り過ぎた。結婚記念日に一人で座ったレストラン、高熱の夜に閉まった玄関、何度も何度も後回しにされた約束、弁護士事務所の冷たい会議室、新しい会社で迎えてくれた人たち、そしてようやく取り戻した穏やかな暮らし。その一つ一つが浮かんでは消え、講演者の言葉だけが静かに心へ残り続けていた。
講演が終わると、会場の人たちは笑顔で挨拶を交わしながら、それぞれ帰り支度を始めた。美咲が紙コップへ温かい紅茶を入れて持ってきてくれる。
「課長、大丈夫ですか。」
凛子は少し照れたように笑い、目元をハンカチで押さえた。
「自分でも分からないの。でも、心を見透かされたような気がしたの。」
美咲は何も聞き返さず、「クッキーもどうぞ」と小さなお皿を差し出した。焼きたてのバターの香りが紅茶とよく合い、凛子は一枚だけ口へ運んだ。
帰り道、公園のベンチへ二人で腰を下ろした。風に揺れる木々を眺めながら、凛子はしばらく黙っていた。以前なら「許せない」という気持ちだけで前を向いてきた。だからこそ仕事も頑張れたし、新しい人生も歩き始めることができた。その時間は決して無駄ではなかった。それでも今日聞いた言葉は、その先にまだ別の道があることを静かに教えてくれたように思えた。
「私は、まだ祈れません。」
凛子は空を見上げながら小さく言った。
「でも、いつか祈れる人になれたらいいなと思いました。」
美咲は穏やかにうなずいた。
「急がなくていいと思います。その日が来たら、それが一番いい時なんですよ。」
夕方、部屋へ戻ると、朝干していた洗濯物は気持ちよく乾いていた。凛子はシャツを一枚ずつ畳み、アイロンを掛けながら窓辺の観葉植物へ目を向ける。夕食は野菜たっぷりのスープと焼いた鮭、それに炊きたてのご飯だった。食後に温かいほうじ茶を飲みながら窓を開けると、夕暮れの風が部屋をゆっくり通り抜ける。
復讐は終わった。人生も取り戻した。それでも、人を憎まない心まではまだ手に入れていない。今日出会った人たちは、その先を歩いているように見えた。凛子は観葉植物の新しい葉へそっと触れ、小さく目を閉じる。いつの日か、自分を深く傷つけた人のためにも静かに祈れる人になれたなら、その時ようやく、この長い物語は本当に終わるのかもしれないと思いながら、夜の静けさの中で部屋の灯りを落とした。




