第22話 問題が起きたとき
第22話 問題が起きたとき
朝から細かな雨が降り続き、会社の窓ガラスには雨粒がゆっくりと流れていた。凛子は薄いグレーのジャケットに白いブラウスを合わせ、いつものように三十分早く出社すると、自分の机を布巾で軽く拭き、昨日飲み切れなかったミネラルウォーターを新しいものへ入れ替えた。給湯室ではコーヒーの香りが漂い、総務課の女性社員が「今日は寒いですね」と笑いながら電気ポットへ水を足している。凛子は返事をしながら、自分で淹れたブラックコーヒーを一口飲み、机の上へ置かれた今日の予定表を静かに開いた。
午前九時を過ぎた頃、営業部から慌ただしい足音が聞こえてきた。取引先へ送金する口座番号を入力し間違え、多額の振込が保留になっているという連絡だった。若い社員は顔を青くし、手元の書類を何度もめくっている。部屋の空気は一気に張り詰め、「どうするんだ」「誰が確認した」と声が飛び交い始めた。凛子は急いで立ち上がることはせず、机の横に置いてあるメモ帳を手に取ると、状況を一つずつ書き出し始めた。
「まず、今分かっていることだけを整理しましょう。」
その一言で部屋が少し静かになった。凛子はホワイトボードへ「送金時刻」「確認者」「銀行への連絡」「取引先への説明」と順番に書き、担当者へ役割を振り分ける。慌てていた若い社員も深呼吸をしてから電話を掛け始め、総務課の女性社員は必要な書類をすぐに集めてきた。誰も責任を押し付ける話はせず、「今できること」だけが少しずつ形になっていく。
昼過ぎには銀行との調整が終わり、大きな損害にはならずに済んだ。社員食堂では今日の日替わり定食がサバの味噌煮で、みそ汁からは湯気が立ち上っている。凛子は同僚たちとテーブルを囲み、ご飯を一口食べてから湯のみのお茶を口へ運んだ。さっきまで青ざめていた若い社員は箸を持つ手がまだ少し震えていたが、「課長、本当にありがとうございました」と頭を下げた。
「私、もう会社を辞めるしかないかと思いました。」
凛子は味噌汁を静かに飲み終えてから、小さく首を横に振った。
「仕事をしていれば、思いも寄らないことは誰にでも起きます。問題が起きたことより、そのあとをどうするかの方が大切ですよ。」
若い社員は何度もうなずき、その言葉を胸の中で繰り返すように箸を持ち直した。
午後、会議室では今回の出来事を振り返るミーティングが開かれた。凛子は責任者を探す資料ではなく、再発防止のための確認表を配る。入力後の二重確認、送金前の読み合わせ、担当者以外による最終確認。それぞれの手順を増やすのではなく、分かりやすく整理した表だった。社長は資料を見ながら何度もうなずき、「失敗を責めるより、仕組みを直す方が会社は強くなるな」と静かに言った。
仕事を終えた帰り道、雨はすっかり上がっていた。凛子は商店街でキャベツと豆腐、それに鶏ひき肉を買い、今日は和風つくねにしようと考えながら歩く。花屋の店先には小さなラベンダーの鉢植えが並び、その香りに足を止めて一鉢だけ買うことにした。部屋へ戻ると、洗濯物は朝干したまま乾いており、一枚ずつ丁寧に畳んで引き出しへしまう。
夕食は和風つくねと冷ややっこ、それに具だくさんの味噌汁だった。窓辺の観葉植物へ水をやり、新しく買ったラベンダーを隣へ並べると、部屋にほのかな香りが広がる。食後、温かいほうじ茶を飲みながら凛子は今日の出来事を思い返した。以前の自分なら、問題が起きるたびに「どうして私ばかり」と空を見上げていたかもしれない。しかし今は違う。人生では足の速い人がいつも勝つわけでもなく、賢い人が必ず報われるわけでもない。思いも寄らない出来事は誰にでも起きるからこそ、その出来事にどう向き合い、どう立ち上がるかが、その人の歩く道を少しずつ変えていくのだと、静かに思えるようになっていた。
ベランダへ出ると、雨上がりの夜風が頬を優しく通り抜けた。遠くで電車が走る音が聞こえ、濡れた街路樹の葉が街灯の光を受けて小さく光っている。凛子は深く息を吸い、ラベンダーの香りが残る指先を見つめてから部屋へ戻った。明日もきっと予想もしない出来事は起きる。それでも、そのたびに立ち止まるのではなく、自分で考え、自分で選び、一歩ずつ前へ進んでいこうと、静かな足取りでカーテンを閉めた。
このまま第23話へつなげるなら、凛子が「過去を乗り越えた人」から「誰かを支えられる人」へ成長していく展開にすると、物語全体がさらに深まります。




