第19話 順位
第19話 順位
梅雨が明けたばかりの朝、強い日差しが白石真央の部屋のカーテン越しに差し込んでいた。部屋着代わりの大きめのTシャツに短いパンツ姿の真央は、ソファの上で膝を抱えたまま動かなかった。テーブルには昨夜買ったコンビニのカルボナーラが半分残り、透明なサラダの容器には水滴だけが付いている。洗濯物はベランダへ干すこともなく洗濯かごへ積み重なり、観葉植物の葉はすっかり色を失っていた。
スマートフォンを開いても、以前のように通知は並ばない。昼休みに誘ってくれていた同僚のグループチャットは静かになり、休日の食事会も「人数がそろわなくて」と断られるようになっていた。真央は鏡の前で髪を整えながら、「みんな忙しいだけ」と自分へ言い聞かせる。しかし鏡の中の自分は、何度髪をとかしても落ち着かない表情のままだった。
昼過ぎ、真央は近所のスーパーへ買い物に出た。薄いベージュのワンピースを着て、小さなトートバッグを肩へ掛ける。店内では夏野菜が並び、トマトやきゅうりが山積みになっている。以前なら拓也が「荷物持つよ」と自然に袋を持ってくれたことを思い出し、レジ袋を片手に持ち替えながら小さく息を吐いた。
帰宅すると、部屋は朝と同じ静けさだった。エアコンをつけ、冷蔵庫へ牛乳とヨーグルトをしまったあと、テーブルへ座る。テレビをつけても内容は頭へ入らず、リモコンを何度も持ち替えているうちに、自然とスマートフォンへ手が伸びた。
「拓也なら助けてくれる。」
その考えは、何年も当たり前だった。夜中に不安になった時も、仕事で落ち込んだ時も、引っ越しの日も、拓也は必ず電話に出てくれた。だから今回も同じだと、疑いもしなかった。
真央は電話を掛けた。
呼び出し音が一回、二回、三回と続く。
画面を見つめながら、指先でテーブルの木目をなぞる癖が出る。
しかし、電話は切れた。
「ただいま電話に出ることができません。」
無機質な音声だけが流れる。
真央は少し時間を置いて、もう一度掛けた。
今度も同じだった。
「どうして……。」
小さくつぶやいても、返事はない。部屋の中では冷蔵庫のモーター音だけが低く響き、ベランダでは風に揺れた洗濯ばさみが小さく当たる音を立てていた。
その頃、拓也は会社近くのビジネスホテルで開かれている取引先との会食に出席していた。白いワイシャツに濃紺のスーツを着ていたが、以前のような自信は表情から消えている。テーブルには和食の会席料理が並び、焼き魚や茶碗蒸しが運ばれてきても、箸はなかなか進まなかった。胸ポケットの中でスマートフォンが震えたが、画面を見ることもなく音を切った。
会食が終わり、一人で駅へ向かう途中、拓也はようやく着信履歴を開いた。「白石真央」の文字が二件並んでいる。以前なら急いで掛け直していた。しかし指は発信ボタンの上で止まり、そのまま画面を閉じた。助けを求める声に応え続けた結果、自分が何を失ったのかを、もう知ってしまっていた。
夜になると、真央はインスタントのコーンスープを作った。マグカップへお湯を注ぎ、スプーンで何度も混ぜるが、熱いまま一口飲んだだけでテーブルへ戻す。窓の外では近所のマンションから笑い声が聞こえ、どこかの部屋では夕食のカレーの香りが風に乗って漂ってきた。
真央はスマートフォンを胸へ抱え、ソファにもたれた。拓也はいつも自分を優先してくれると思っていた。凛子よりも、自分を選んでくれることが当たり前だと思っていた。しかし、その当たり前は、誰かが静かに譲り続けてくれていた時間の上に成り立っていただけだった。
「……そういうことだったんだ。」
真央はぽつりとつぶやいた。誰かの一番を奪って手に入れた居場所は、永遠には続かない。その場所は、誰かの犠牲がなくなった瞬間、音もなく崩れてしまう。
テーブルの上では飲みかけのコーンスープがすっかり冷めていた。真央は立ち上がり、乾いた観葉植物へコップ一杯の水を注ぐ。葉はすぐには元へ戻らない。それでも水は静かに土へ染み込み、部屋の中には、水滴が落ちる小さな音だけが残っていた。




