第18話 もう戻らない
第18話 もう戻らない
土曜日の午後、雲ひとつない青空が広がり、駅前の並木道では風に揺れる若葉が初夏の日差しをやわらかく受け止めていた。拓也はグレーのポロシャツにベージュのチノパンというラフな格好で、クリーニングへ出していたスーツを受け取りに商店街を歩いていた。昼食は立ち食いそばで済ませたばかりだったが、つゆを少しこぼしてしまい、胸元をハンカチで何度もこすっている。昔なら凛子が「シミになる前に水で洗った方がいいよ」と笑いながら教えてくれたことを思い出し、思わず足が止まった。
駅前広場では小さなイベントが開かれ、子どもたちがシャボン玉を追いかけて歓声を上げていた。パン屋から焼きたてのガーリックフランスの香りが漂い、テラス席では買い物帰りの夫婦がアイスコーヒーを飲みながら話している。拓也は何気なくその光景へ目を向けた瞬間、人混みの向こうに見覚えのある横顔を見つけた。
凛子だった。
白いリネンのブラウスに淡い水色のロングスカートを合わせ、肩には細い革のバッグを掛けている。髪は以前より少し短くなり、耳元には小さな銀色のピアスが光っていた。その隣には男女四人ほどの同僚らしい人たちがいて、みんな紙コップのコーヒーやサンドイッチを手に笑い合っている。
「朝倉さん、それ絶対また数字見てたでしょう。」
若い男性社員が笑うと、凛子は少し肩をすくめた。
「見てたのがばれました?」
その言葉に周囲がどっと笑う。女性社員は「だから会議であんなに早く気づいたんですね」と感心し、別の男性は「次のランチも経費削減で決まりですね」と冗談を言った。凛子は口元へ手を添えて笑い、その自然な表情は、拓也が何年も見たことのない柔らかさだった。
拓也は思わず一歩前へ出た。名前を呼ぼうと口が少し開く。しかし声は出なかった。足元には街路樹の葉が一枚落ちていて、それを見つめたまま靴先が動かない。
凛子の笑顔を見ながら、拓也は結婚して間もない頃を思い出していた。休日になると二人で市場へ行き、凛子は旬の野菜を見つけるたびに「今日はアスパラが安いね」と楽しそうに買い物かごへ入れていた。帰宅するとエプロンを結び、キッチンからはオリーブオイルとにんにくの香りが広がる。その笑顔が少しずつ消えていった理由を、自分は考えようともしなかった。
「拓也?」
誰かに呼ばれた気がして振り向くと、会社の元同僚だった。立ち話を始めようとしたその時も、拓也の視線は凛子から離れない。同僚は「最近どう?」と気軽に尋ねたが、拓也は曖昧に笑うだけで返事を濁した。
その頃、凛子たちは近くのベーカリーで買ったサンドイッチを公園のベンチへ広げていた。照り焼きチキン、たまごサンド、ハムとチーズ、それぞれ好きなものを選びながら、「今度はお弁当を持ってこようか」と話している。凛子は紙ナプキンで手を拭き、温かいカフェラテを一口飲むと、仕事とは関係のない旅行の話題で笑っていた。そこには誰かへ気を遣い続ける姿も、無理に空気を合わせる様子もなかった。
拓也はもう一度だけ前を見た。凛子との距離は横断歩道一つ分しかない。信号が青になれば追いつける距離だった。それでも足は動かなかった。謝りたい、話したい、そんな思いは胸の中で何度も形を変えたが、そのどれもが自分のための願いでしかないことを、ようやく理解してしまった。
「……元気そうでよかった。」
その言葉は誰にも聞こえないほど小さかった。風が吹き抜け、街路樹の葉が一枚、拓也の肩へ落ちる。凛子は最後までこちらを見ることなく、同僚たちと笑いながら駅の反対側へ歩いていった。
拓也はしばらくその背中を見送り、ようやくクリーニング店へ向かった。受け取ったスーツはきれいにビニールが掛けられ、店員は「仕上がり確認お願いします」と笑顔で差し出す。拓也は小さく頭を下げ、袋を受け取ると、そのまま静かな足取りで家路についた。
夕焼けが街を赤く染め始める頃、拓也はコンビニで鮭弁当を一つ買った。家へ帰って電子レンジで温めても、食卓の向かい側の椅子は今日も空いたままだった。窓から差し込む西日が床へ長く伸びる中、拓也は箸を持ったまま動きを止める。もう戻らないのは凛子ではない。あの日まで当たり前だった二人の時間そのものが、静かに終わっていた。




