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第17話 空っぽの部屋

第17話 空っぽの部屋


夕方、会社を出た拓也は、少し色あせたネイビーのスーツ姿のまま駅前の商店街を歩いていた。焼き鳥屋からは炭火の匂いが流れ、八百屋には「新じゃが特売」と書かれた手書きの札が揺れている。以前なら凛子へ「何か買って帰るものある?」と短いメッセージを送っていた時間だったが、今はスマートフォンを取り出すこともなく、コンビニでおにぎりを二つとペットボトルのお茶だけを買ってマンションへ戻った。


玄関の鍵を開けると、部屋は静まり返っていた。照明をつけても、誰かが「おかえり」と言うことはない。革靴を脱いだまま廊下へ置き、ネクタイを緩めながらリビングへ入ると、空気が少しよどんでいるように感じた。以前は凛子が毎朝窓を開け、観葉植物へ水をやり、レモングラスの香りがする小さなアロマを玄関へ置いていた。その香りはもう消え、部屋には閉め切った空気だけが残っていた。


食器棚には白い茶碗と湯飲みがきれいに並んでいる。どれも凛子が結婚祝いにもらったものを大切に使っていた食器だった。拓也は茶碗を一つ取り出そうとして、どこへ何があるのか分からず、扉を何度も開け閉めした。味噌汁のお椀は上の棚だったか、それとも下だったか。毎日使っていたはずなのに、自分では何一つ覚えていなかった。


冷蔵庫を開けると、卵が二個、納豆が一パック、賞味期限を過ぎた豆腐、それに開封したままのドレッシングが一本あるだけだった。野菜室は空っぽで、凛子がいつも作り置きしていたきんぴらごぼうやポテトサラダの保存容器も見当たらない。拓也はコンビニのおにぎりを皿へ移そうとして手を止め、そのまま袋を破いて食べ始めた。机には以前の新聞が積み重なり、読み終えたチラシが端から少しはみ出している。


食事を終えたあと、流し台へ皿代わりに使った包装を置いたまま、拓也はリビングをゆっくり見回した。窓際には観葉植物が一鉢だけ残っている。葉先は少し茶色くなり、土も乾いてひび割れていた。凛子は毎週日曜日になると霧吹きで葉を拭き、「植物も埃が苦手なの」と笑っていた。その姿を思い出し、拓也は慌ててキッチンからコップを持ってきて水を注いだが、どれくらい与えればいいのかも分からなかった。


本棚の前で足が止まる。半分ほど空いた棚には、拓也の資格試験の参考書だけが並び、以前そこへ置かれていた会計や経営の本はすべてなくなっていた。凛子は夜になると温かいほうじ茶を入れ、小さな付箋を貼りながら専門書を読んでいた。ページの端へ細い字で書かれたメモを見つけては、「数字って嘘をつかないから面白いの」と話していた声が耳の奥によみがえる。


拓也はソファへ腰を下ろした。クッションの形は変わらないのに、部屋全体が広くなったように感じる。テレビのリモコンがどこにあるのか分からず、立ち上がって探し始めると、棚の裏から凛子が使っていた小さな裁縫箱が転がり出てきた。ボタンが外れたシャツも、ほつれたハンカチも、いつの間にか直っていた理由を、その箱を見て初めて思い出す。


「こんなことまで……。」


誰に向かって言うでもなく、小さくつぶやいた。返事はない。時計の秒針だけが一定の音を刻み、冷蔵庫のモーター音が静かな部屋へ響いている。


夜遅く、拓也は洗濯機の前へ立った。洗剤はどこにあるのか分からず、棚を何度も開ける。柔軟剤を入れる場所も曖昧で、説明書をスマートフォンで調べながら洗濯を始めた。以前は仕事から帰ると、きれいに畳まれたワイシャツがクローゼットへ並び、靴下は左右そろえて引き出しへ入っていた。それが当たり前だと思っていた。


洗濯機が回る音を聞きながら、拓也は窓際の観葉植物へもう一度目を向けた。部屋からなくなったのは家具ではない。食事を作る人、洗濯をする人、植物へ水をやる人、季節の花を飾る人、散らかった机を黙って整える人。その積み重ねがなくなったことで、部屋はただの箱になっていた。


拓也はソファへ深く腰を下ろし、薄暗い天井を見上げた。自分は家庭を支えていたつもりだった。しかし、本当に支えられていたのは、自分の方だった。そのことを知った部屋は静かで、窓の外から聞こえる終電の音だけが、ゆっくりと夜の街を通り過ぎていった。



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