第16話 優しい人
第16話 優しい人
朝から柔らかな日差しが差し込み、藤崎家の庭では紫陽花の葉に昨夜の雨粒がまだ残っていた。拓也の母・和子は薄い藤色のカーディガンを羽織り、縁側へ座って湯飲みのお茶をゆっくり口へ運ぶ。朝食の焼き鮭は半分ほど残り、冷めた味噌汁には刻みねぎが静かに浮かんでいた。最近は一人分だけ料理を作ることにも慣れたつもりだったが、つい二人分の漬物を小皿へ並べてしまう癖だけは抜けなかった。
玄関のチャイムが鳴り、郵便受けには分厚い封筒が入っていた。差出人は冴島法律事務所である。和子は眼鏡を掛け直し、居間の丸いちゃぶ台へ封筒を置くと、小さな裁ちばさみで丁寧に封を切った。部屋には線香の穏やかな香りが漂い、壁の時計だけが規則正しく時を刻んでいる。
中には何枚もの書類が入っていた。送金履歴、口座の明細、宿泊施設の利用記録、写真、そして時系列にまとめられた説明資料である。和子は最初、「何かの間違いでしょう」と小さくつぶやいた。拓也は昔から人に優しい子だった。困っている友達がいれば放っておけず、小学生の頃も転んだ同級生を背負って保健室まで運んだことを近所の人が褒めてくれた。その記憶があるからこそ、今目の前に並ぶ数字が信じられなかった。
一枚、また一枚と資料を読み進めるうちに、和子の指先は何度も止まった。凛子へ「残業だから遅くなる」と伝えていた夜、真央と温泉街にいた写真。家計から送られた何度もの振り込み。結婚記念日のレストラン予約と同じ日に使われたカードの履歴。どれも日付まできれいに整理され、言い逃れのできない形で並んでいた。
和子は立ち上がり、仏壇へ新しい線香を供えた。手を合わせようとしても、途中で指が止まる。仏壇の横には、結婚式の日に撮った拓也と凛子の写真がまだ飾られていた。白いドレス姿の凛子は少し照れたように笑い、隣では拓也が誇らしそうに立っている。その写真を見つめながら、和子は何年も前のある日のことを思い出した。
冬の日、凛子は朝早くから台所でお雑煮を作っていた。和子が「手伝うわよ」と声を掛けると、「お義母さんは座っていてください。お餅はあとで焼きますから」と笑って返してくれた。食後には流し台まで磨き、帰る時には冷蔵庫へ煮物まで入れて帰った。あの時、自分は「拓也は優しいから安心でしょう」と笑っていた。
「あの子を苦しめていたのは……拓也だったのね。」
声は小さかった。けれど静かな居間には、その一言だけがはっきり響いた。和子は眼鏡を外し、ハンカチで目元を押さえた。涙は資料の端へ一滴落ち、小さな丸い跡を残した。
その日の夕方、和子はスーパーで凛子が好きだった肉じゃがの材料を買った。じゃがいも、人参、玉ねぎ、しらたき、それに牛肉を買い物かごへ入れながら、「今度届けよう」と考えていた頃の習慣が自然と戻っていた。しかしレジを済ませたところで足が止まる。届ける相手は、もうこの家族ではなくなっているのだと気づいた。
家へ戻ると、肉じゃがをことこと煮込みながら、和子は何度もスマートフォンを手に取った。凛子の連絡先はまだ残っている。「ごめんなさい」と一言送ればいいのではないか。そう思って画面を開くたびに、冴島から届いた通知の文面が頭に浮かぶ。
『今後のご連絡は代理人を通してください。』
和子は静かにスマートフォンを伏せた。謝りたい気持ちは本物だった。しかし、その言葉は自分の心を軽くするためのものではないだろうかと、初めて考えた。
夜になり、肉じゃがは少し味が染みていた。和子は一人で食卓に座り、小さな茶碗へご飯をよそう。向かい側の椅子は空いたままで、湯気の立つ味噌汁の向こうには誰も座っていない。以前なら凛子が「お義母さん、今日は少し味が濃くなりましたね」と笑いながら言ってくれた。その声はもう聞こえなかった。
窓の外では虫の声が聞こえ始め、庭の紫陽花が夜風に揺れている。和子は箸を置き、深く頭を下げた。その謝罪は誰にも届かない。それでも頭を上げることができないほど、自分が見ようとしなかったものの重さだけは、ようやく胸の中へ静かに積もっていた。




