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第15話 謝罪という自己満足

第15話 謝罪という自己満足


朝から薄い雨が降り続き、拓也の部屋のベランダには、何日も取り込まれていない洗濯物が湿ったまま揺れていた。白いワイシャツの袖には小さな皺が残り、以前なら凛子が週末ごとに丁寧にアイロンをかけてくれていたことを思い出す。食卓には昨夜スーパーで買ったアジの開きが一切れだけ皿に乗っていたが、味噌汁は鍋の中で冷え切り、ご飯も炊飯器の保温が切れたまま固くなっていた。


拓也は食事を半分ほど残し、食器を流し台へ運んだ。蛇口をひねっても皿は洗わず、そのまま椅子へ戻ると、机の引き出しから便箋を取り出す。便箋は凛子が以前、文房具店で「書きやすい紙だから」と選んでくれたものだった。封を開ける手が止まり、角の少し折れた便箋を指で何度もなぞってから、ようやく万年筆を握った。


最初の一行を書くまでに十分近くかかった。何を書けばいいのか分からないのではなく、何を書いても足りないことだけは分かっていた。「悪かった。」と書き、そのあとに長い空白が続く。拓也はペン先を口元へ運ぶ癖が昔からあったが、今日はインクの味だけがかすかに広がり、言葉はなかなか紙へ落ちなかった。


「やり直したい。」


その一文を書き終えたあと、拓也は便箋を見つめ続けた。以前なら、凛子は手紙など書かなくても話を聞いてくれた。仕事で失敗した日も、風邪をひいた夜も、「温かいうちに食べて」と言って雑炊を出してくれた姿が浮かぶ。その記憶を思い返すほど、紙の上の二行だけがあまりにも薄く見えた。


午後になり、拓也は郵便局へ向かった。小雨が降る商店街では、八百屋の店先に並ぶ新玉ねぎが雨粒で光り、パン屋からは焼きたてのメロンパンの甘い匂いが漂っている。以前なら凛子が好きだった塩パンを一緒に買って帰った道だったが、今日は封筒をポストへ入れるだけで、そのまま駅へ引き返した。


数日後、拓也は郵便受けを開けるたびに手紙を探した。仕事から帰ると最初に郵便受けを確認し、休日の朝も寝癖のついたままサンダルで外へ出る。広告や公共料金の通知ばかりが増え、返事らしい封筒は一通も届かない。部屋では読みかけの新聞が床へ広がり、コーヒーカップの底には飲み残した黒い液体が少しだけ残っていた。


一週間後、一通の封書が届いた。差出人は朝倉凛子ではなく、冴島法律事務所だった。拓也は急いで封を切り、何枚も便箋が入っていると思った。しかし中にあった紙は一枚だけで、印刷された短い文章が静かに並んでいた。


「今後、本人への連絡はご遠慮ください。必要な連絡はすべて代理人を通してください。」


拓也は何度も読み返した。紙を裏返しても続きはない。余白だけが広く残り、そこへ自分の期待まで切り取られたようだった。机の上には自分が書いた手紙の下書きがまだ残っている。「悪かった。」「やり直したい。」その文字は、誰にも読まれることなく紙の上で止まっていた。


その頃、凛子は仕事を終え、自宅近くのスーパーへ立ち寄っていた。今日は特売の鶏むね肉とブロッコリー、それに牛乳を買い物かごへ入れ、レジ横に並ぶ季節限定の桜餅を一つだけ追加する。帰宅するとグレーのカーディガンへ着替え、炊きたてのご飯と具だくさんの味噌汁を食卓へ並べたあと、小さなガーベラの水を替えた。


夕食を終えると、凛子は湯飲みに温かいほうじ茶を注ぎ、読みかけの会計実務の本を開いた。スマートフォンは机の端へ伏せたままで、一度も手に取らない。窓の外では雨がやみ、街灯の光が濡れた道路へ静かに映っている。凛子の生活はもう、誰かから届く言葉に左右される毎日ではなくなっていた。


拓也は代理人からの通知を机へ置き、静かに椅子へ腰掛けた。返事が来なかったのではない。返事は届いていた。ただ、それは自分が望んでいた言葉ではなかった。謝罪とは、許されるために差し出す切符ではない。その当たり前のことを知った夜、部屋には時計の秒針だけが、規則正しく時を刻み続けていた。



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