第14話 元財務部の女
第14話 元財務部の女
四月の朝はまだ少し肌寒く、凛子は白いブラウスにネイビーのジャケットを羽織り、新しい会社の入ったオフィスビルへ向かっていた。駅前のパン屋から焼きたてのクロワッサンの香りが流れ、出勤途中の人たちが紙袋を片手に足早に歩いていく。凛子は小さなカフェで買ったハムとチーズのサンドイッチをバッグへしまい、胸元の社員証を軽く整えると、自動ドアの前で一度だけ深く息を吸った。
受付では若い女性社員が笑顔で迎えてくれた。「おはようございます、朝倉さん。」と名前を呼ばれるだけで、凛子は少しだけ肩の力が抜けた。以前の職場では毎朝机を拭いてから仕事を始める癖があったため、この日も配られた布巾でデスクの角を丁寧に拭くと、小さな観葉植物が窓際に並ぶフロアを見回した。誰かが淹れたコーヒーの香りが漂い、コピー機の動く音が静かな朝の空気に溶け込んでいた。
配属された経営管理部は、数字こそ毎月まとめられているものの、誰も全体を見渡せていなかった。契約書は古いファイルへ無造作に差し込まれ、請求書の控えは担当者ごとに保管方法が違う。凛子は机へ座ると、まず色違いの付箋を用意し、一枚ずつ契約書へ貼り始めた。更新日、契約先、金額、解約期限。それだけを整理しただけで、山積みだった書類は少しずつ意味のある順番へ並び替えられていく。
昼休みになると、女性社員たちが「今日は唐揚げ定食にする?」と楽しそうに話していた。凛子は自宅から持ってきた小さな二段弁当を開く。昨夜、自分で焼いた鮭と卵焼き、ほうれん草のおひたし、それに梅干しをのせたご飯がきれいに詰められていた。以前は拓也の分も毎朝作っていたため、卵焼きを焼く量だけはなかなか減らせず、今日も二人分作りそうになってから一人分へ戻したことを思い出し、小さく笑みを浮かべた。
午後になると、凛子は三年間の支出一覧を表計算ソフトへ入力し直した。数字を眺めているうちに、不自然な契約更新がいくつも見えてくる。同じ内容の保守契約が二社と結ばれていること、利用していないシステムのライセンス料が毎月引き落とされていること、不要になった倉庫の賃料が今も払い続けられていること。数字は静かだったが、そこには誰も気づかなかった無駄がはっきり並んでいた。
「この契約、本当に必要でしょうか。」
凛子は部長へ資料を差し出した。
「解約時期を合わせれば、年間でかなり削減できます。」
部長は眼鏡を少し上げ、何度も資料を見比べる。隣にいた若い社員も思わず身を乗り出し、「こんな見方があるんですね」と感心した。凛子は大げさな説明をせず、付箋を一枚貼りながら「契約書は期限を見るだけでも違います」と穏やかに答えた。
それから三か月が過ぎた。会議室の壁には、新しい収支報告書が映し出されている。赤字が続いていた部署は無駄な契約を整理し、経費の流れも見直され、利益は少しずつ回復していた。会議の前には総務課の女性社員が湯飲みに温かい緑茶を配り、湯気とともに新茶の香りが部屋へ広がる。社長は資料を最後まで読み終えると、静かに腕を組んで凛子を見た。
「三か月でここまで変える人は初めてだ。」
部屋は静まり返ったあと、大きな拍手に包まれた。部長は「朝倉さんが来てくれて本当に助かりました」と頭を下げ、若い社員たちも笑顔で頷いている。凛子は照れたように頭を下げながら、指先でボールペンをゆっくり回した。以前なら、この成果を真っ先に拓也へ報告しただろう。しかし今は、誰かに認めてもらうためではなく、自分が積み重ねた仕事そのものが目の前に残っていた。
夕方、仕事を終えた凛子は会社を出る前にデスクの上をきれいに整え、明日使う資料を左端へそろえた。帰り道、商店街の八百屋で新じゃがいもとアスパラガスを買い、小さな花屋では黄色いガーベラを一本だけ選ぶ。部屋へ戻ると、花瓶代わりのガラス瓶へ水を入れ、窓辺へ飾った。柔らかな夕日が花びらを照らし、その隣には新しい社員証が静かに置かれていた。結婚生活の中で何度も飲み込んできた力は、ようやく誰かのためではなく、自分自身の未来を支える力へ変わり始めていた。




