第12話 失った信用
第12話 失った信用
朝から厚い雲が空を覆い、商社の窓ガラスには細かな雨粒が何本もの筋を作っていた。拓也は紺色のスーツに袖を通しながらネクタイを締めたが、何度結び直しても曲がって見え、鏡の前で小さく舌打ちをした。朝食の食卓には昨夜買った食パンとインスタントコーヒーだけが並び、冷蔵庫には賞味期限の切れた牛乳が一本残っていたが、確かめる気にもなれず、そのまま流し台へ戻した。
会社へ着くと、いつもなら挨拶を返してくれる後輩たちの声がどこかぎこちなかった。総務課の女性社員がコピー用紙を抱えて通り過ぎるときも、以前のような世間話はなく、目だけ軽く合わせて足早に去っていく。拓也は自分の机に座り、昨日のまま積み重なった営業資料を整えながら、「離婚の話が少し広まっただけだ」と自分に言い聞かせた。
その時、社内メールが届いた。
「本日十時、人事部会議室へお越しください。」
件名には「社内調査について」とだけ書かれていた。拓也は画面を見つめたまま指先でマウスを何度も叩き、無意識にシャツの袖口を引っ張った。家庭の問題が会社まで広がるとは思っていなかったが、少し事情を説明すれば終わるはずだと、自分に都合のいい考えを捨てきれなかった。
十時ちょうど、人事部の会議室へ入ると、部屋には直属の部長と人事担当者、それに総務部の社員まで席についていた。白い蛍光灯の光はやけに明るく、長机には人数分の資料がきれいに並べられている。紙の横には湯気の消えた紙コップのお茶が置かれており、誰も口をつけた形跡がなかった。
「では始めます。」
人事担当者が静かに口を開いた。最初に示されたのは勤務記録だった。営業先へ向かうと申請していた時間帯に、白石真央が住むマンション近くのコインパーキングを利用していた履歴が何度も残っている。交通系ICカードの利用時間、社用車の運行記録、スマートフォンの位置情報まで整理され、一枚ずつ机へ並べられていった。
「これは……たまたまで。」
拓也はそう言いかけたが、人事担当者は次の資料をめくる。今度は経費精算だった。取引先との打ち合わせとして申請した飲食代。しかし、その日に同行した社員はいない。さらに領収書の日付と、真央がSNSへ投稿していた料理の写真が一致していた。画面に映る華やかなランチの写真と、会社へ提出された書類の数字が静かに重なっていく。
部長は何も言わず資料を見続けていた。拓也は額の汗をハンカチで押さえ、机の角へ視線を落とした。木目の一部が少し剥がれていることに、こんな時になって初めて気づく。昔、営業成績が一位になった日に、この会議室で部長から缶コーヒーを渡されたことまで思い出し、その記憶だけが胸の奥に引っ掛かった。
「家庭の事情は会社も配慮します。」
人事担当者は落ち着いた口調で言った。
「ですが、勤務中の私的外出、虚偽の営業報告、経費処理の不備は家庭の事情とは別です。」
拓也は返す言葉が見つからなかった。どれも小さなことだと思っていた。一回くらいなら、少しくらいならと積み重ねたものが、今では厚いファイル一冊になって自分の前へ置かれている。
部長は深く息を吐き、窓の外を一度だけ見た。雨は少し強くなり、灰色の空の下を傘を差した社員たちが急ぎ足で歩いている。
「君は仕事ができると思っていた。」
その言葉だけだった。
叱責も怒鳴り声もない。ただ静かな一言だったが、拓也は顔を上げられなかった。数字をまとめ、部下を引っ張り、取引先から信頼されている。それが自分の誇りだったはずなのに、その評価は一枚一枚の資料よりも簡単に崩れてしまった。
昼休みになっても拓也は社員食堂へ行かなかった。机の引き出しには朝コンビニで買ったハムサンドが入ったままで、包装の内側には小さな水滴が付いている。向かいの席では後輩たちが新発売のカレーライスの話をしながら笑っていたが、その輪へ入る者は誰も拓也を呼ばなかった。
夕方、営業フロアの照明が少しずつ消え始める頃、拓也は一人で机の上を片付けていた。ペン立てにはインクの切れたボールペンが何本も刺さったままで、引き出しの奥からは凛子が以前持たせてくれた小さな裁縫セットが出てきた。ボタンが取れた時のためにと渡されたものだったが、一度も使わないまま半年以上が過ぎていた。
拓也はその小さなケースを握ったまま、しばらく動かなかった。会社を出る頃には雨は上がっていたが、濡れたアスファルトだけが街灯をぼんやり映している。今日失ったものは役職でも昇進でもない。その土台になっていた「信用」が、自分の足元から静かに崩れ始めていた。




