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第11話 契約の重み

第11話 契約の重み


凛子は、午前十時の五分前に法律事務所の応接室へ入った。白いブラウスに薄いグレーのジャケットを合わせ、髪は低い位置で一つにまとめていた。テーブルの上には湯気の消えかけたほうじ茶が置かれ、隅には誰かが置き忘れた飴の包み紙が、小さく折れたまま残っていた。


拓也はすでに来ていた。濃紺のスーツは肩のあたりに皺が寄り、ネクタイも少し曲がっている。隣には弁護士が座っていたが、拓也の膝の上の手だけが落ち着きなく動いていて、親指の爪を何度もこすっていた。凛子はその手を一度だけ見てから、静かに椅子へ座った。


「ここまでしなくてもいいだろ。」


拓也の声は、怒鳴るほど強くはなかった。けれど、今まで凛子に向けてきた甘えが、まだ少しだけ残っていた。凛子は鞄から細い黒革の手帳を出し、角をそろえてテーブルに置いた。昨日の夜、コンビニで買った鮭のおにぎりを半分だけ食べて、残りを冷蔵庫に入れたことを思い出したが、その程度のことしか胸には浮かばなかった。


「契約は、感情では変わりません。」


凛子がそう言うと、拓也の弁護士が一瞬だけ視線を落とした。冴島は何も言わず、分厚いファイルを開いた。透明なポケットには、婚姻中の資産一覧、家計口座の出金記録、白石真央への送金履歴、宿泊施設の明細、録音内容の文字起こしが順番に並んでいた。紙の端には付箋が貼られ、青は共有財産、黄色は私的利用、赤は虚偽説明と分類されていた。


拓也は最初、笑おうとした。大げさだと言えば凛子が引くと、まだどこかで思っていたのだろう。けれど冴島が一枚ずつ資料を差し出すたび、拓也の顔から余計な表情が消えていった。真央に送った三万円、五万円、八万円。妻には「今月は節約しよう」と言った同じ週に、温泉宿の予約金がカードで落ちていた。


応接室の時計が十一時を打った。廊下の向こうから、事務員が昼食の弁当を確認する声が小さく聞こえた。誰かが「今日は唐揚げが残ってます」と言い、別の誰かが笑った。凛子はその声を聞きながら、以前の自分なら、この場でも拓也の昼食の心配をしていたかもしれないと思った。


「凛子、俺は……。」


拓也が口を開いた。凛子は遮らず、ただ見ていた。拓也は言葉を探していたが、出てくるはずの言い訳は、すべて紙の上に潰されていた。困っていたから、幼馴染だから、放っておけなかったから。そのどれもが、家計口座から流れた数字の前では、ただの説明不足にすぎなかった。


冴島が最後の紙を置いた。そこには、拓也が凛子に言った言葉が録音から起こされていた。「お前は強いから大丈夫」「真央は俺しか頼れない」「嫉妬しすぎだ」。拓也はその文字を見て、初めて椅子の背にもたれた。窓の外では、梅雨前の薄い日差しが向かいのビルの窓に反射していた。


「条件の見直しを求めるのであれば、こちらも追加請求を検討します。」


冴島の声は低く、事務的だった。拓也の弁護士は小さく咳払いをし、依頼人の方へ顔を向けた。拓也は何も言わなかった。凛子は手帳を閉じ、ほうじ茶に一度だけ口をつけた。もう冷めていたが、苦みははっきり残っていた。


その時、拓也はようやく理解した。凛子は怒っているのではない。許すか許さないかを話し合う場所にも、もういない。自分が捨てたのは、優しい妻ではなく、最後まで生活と数字を整えてくれていた人だったのだ。


凛子は席を立った。グレーのジャケットの袖口を軽く直し、椅子を静かに戻した。拓也が何かを言いかけたが、凛子は振り返らなかった。法律事務所を出ると、ビルの一階に小さなパン屋があり、焼きたてのクロワッサンの匂いが漂っていた。


凛子は少し迷ってから、卵サンドと小さなミルクパンを買った。紙袋はまだ温かかった。横断歩道の信号が青に変わり、人の流れが動き出す。凛子はその中に紛れ、いつもの歩幅で前へ進んだ。



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